時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第69話 ソ連共産党の解体

 1989年6月の参院選で自民党は過半数を大きく割り、55年の保守合同以来の最大の敗北を喫しました。このもとで、12月には参院本会議で消費税廃止法案が賛成多数で可決されるという画期的変化をうみだすなかで、90年代を迎えます。

巨悪の党の終焉をもろ手をあげて歓迎 

 80年代末から90年代にかけ、東欧諸国の激動が生まれます。背景にあったのはソ連の覇権主義とそれと結びついた各国の官僚主義に反対する人民の不満の爆発でした。「ベルリンの壁」は崩れ、政権が次々に倒れます。
 91年8月、ソ連でクーデターが発生し、ソ連共産党の関与と責任を追及する世論のなかで、ゴルバチョフが書記長を辞任し、ソ連共産党が解散に追いこまれます。
 日本共産党は9月1日、常任幹部会の声明「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する――ソ連共産党の解体にさいして」を発表し、世界に巨大な害悪を流しつづけた党の終わりを「もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事である」と表明しました。

神崎敏雄の感慨  

志位書記局長を迎えて開かれた「ソ連問題と日本共産党を語る学習決起集会」=1991年9月12日、府立体育会館

 ソ連の干渉、志賀義雄の裏切りのもとで、文字通り「党の生死をかけてたたかってきた」大阪で、声明は感慨をもって受け止められました。
 1964年に志賀が反党声明の記者会見をした際、こともあろうに当時大阪市議団長だった神崎敏雄の名を「行動を共にする同志」としてあげました。神崎は「腹の底から怒りを感じ」、67年に志賀が議席をかすめとろうとした衆院大阪6区(1区を分区)から立候補。立会演説会でニヤけて握手を求めてきた志賀を毅然とはねのけます。志賀は落選。72年総選挙で勝利した神崎は、「当時をふりかえると、今回の常幹声明が、いかに正鵠を射たものであるか実感できます」と語りました(「大阪民主新報」91年9月15日号)。
 大阪府委員会は9月12日には府立体育会館に7千人を集め、志位和夫書記局長を迎えての「ソ連問題と日本共産党を語る学習決起集会」を開きます。「この党のたたかいを本当に誇りに思う」「〝進歩の大道”を堂々と歩む」と感銘を与えました。
 大阪革新懇は19日にシンポジウム「ソ連問題などをどうみる・どう考える」を開きます。菅生厚党大阪府委員長が「反核平和分野に見る大阪での干渉との闘い」を報告しました。民青大阪府委員会は10月13日、「ヤングジャンプ」を開き、ソ連共産党の解体をどう見るか、世界と日本の未来をともに語り合いました。

「体制選択論」   

 東欧の激動・ソ連崩壊のもとで、国内では「社会主義はダメになった。共産党は時代遅れ」などという「体制選択論」攻撃が吹き荒れます。
 国政選挙はもとより、あらゆる中間地方選挙でも「体制選択論」打破が強く求められました。党府議を勇退してからも河南地区委員会で地方選挙応援の第一線にたった山田芳一は『演説集 住民の願いひとすじに』で90年代を中心に26編の演説を収録しています。その多くが「ソ連がつぶれた。この市でも共産党は要らない」という攻撃にたいし、「ソ連は共産主義でもなんでもない。私たち本当の共産主義の運動をしている者の妨害者なんです。だから私ども日本共産党は、ソ連共産党の解散を心から歓迎するといっているわけです」として、日本共産党の戦前戦後の歴史をわかりやすく堂々と語り広げたものでした。(次回は「あいのり、ためこみ」です)

(大阪民主新報、2021年11月28日号より)

 

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