時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第57話 79年総選挙――7人全員当選

「躍進月間」の前進

総選挙で大阪7人全員当選・全国41議席への躍進を果たし喜び合う(前列左から)くつぬぎ氏、正森氏、東中氏、村上氏、定免氏、三谷氏、藤田氏、神崎氏、四谷氏、橋本氏ら=79年10月8日

 1979年10月7日、70年代最後の政治決戦となった総選挙。日本共産党大阪府委員会は、「大阪は一つ、7人全員当選で80年代日本の夜明けを大阪からつくろう」を合言葉に、「黒田さんを支持した167万人の人々に共産党支持になってもらうという壮大な視野」(定免府委員長)での奮闘を開始します。
 政治宣伝では、『府民といっしょに 明日をめざす共産党』(32ページ・50円)を9月に発行、「100万部大作戦」をうちだします。また党副委員長だった袴田里見が党を裏切り、これを利用した反共攻撃が大規模に展開されるもとで「反共毒素一掃」の「クリーンパンフ」の大量普及に力をそそぎます。
 総選挙勝利へ、6・7月に展開した「躍進月間」では、「5万の党員、40万の読者で7名全員当選を」「党員3人で党員1、日刊紙2、日曜版5、パンフ15セットを」を目標にすえ、64%の支部が合計3374人の入党決意者を迎え、「赤旗」日刊紙は8千、日曜版2万8千部を増やします。前回総選挙時を上回る読者をきずきます。

全国41議席へ   

 総選挙が公示され、大阪の党組織は、「出勤前2時間の活動を」とよびかけ、35人が午前6時に集まり9千枚のビラ配布を展開(茨木)など、「こんどこそは」の気概に燃えた大奮闘で、見事に7人全員当選を果たします。
 府内合計得票は史上最高の75万8322票(得票率22・32%)でした。
 自民党は府内第3党に転落し、府連会長の原田憲(3区)が落選。社会党は府本部委員長の馬場猪太郎(7区)が落選しました。「一般消費税」導入のもくろみなど自民党の悪政への府民の怒り、それになれあってきた右寄り野党路線、黒田府政打倒に手を貸した勢力への強い批判を示したものになりました。
 日本共産党は全国で41人が当選し、新たな歴史的一歩をふみだしました。

1区 正森成二(前) 7万6635 (2位)
2区 東中光雄(前) 10万4575 (2位)
3区 村上弘(前) 14万4227 (1位)
4区 三谷秀治(前) 11万7131 (2位)
5区 藤田スミ(新) 13万2150 (2位)
6区 神崎敏雄(元) 7万9742 (2位)
7区 四ツ谷光子(新) 10万3862 (2位)

70年代の大躍進 

 1980年の年頭あいさつで定免府委員長は70年代をふりかえり、「69年には共産党の衆院議員は1人、東中さんだけだったんですが、いまは7人になっています。得票も約40万が76万に伸びています。参院地方区はゼロから2人。府議会では4人から19人(現在2人欠員)、大阪市会は7人から18人になり、一般市町村議員は72人から174人になっています。わが党を与党とする自治体は、5市だったのが16市3町になっています。このように、この10年間の共産党の歩みは、大躍進であったといえますね」と語りました。
 80年2月に開かれた日本共産党第15回党大会。不破哲三書記局長は討議についての結語で「関西における70年代の政治的変動」にふれました。京都、大阪をはじめ関西2府4県は、69年には衆院4議席、第5党でした。それが79年総選挙をへて16議席、自民党につぐ第2党を占め、得票数も83万から153万に躍進しました。「ここに社会党の右転落下での関西における先駆的経験がある」と。(次回は「反動攻勢と80年同時選挙」です)

(大阪民主新報、2021年9月5日号より)

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