時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第34話 共闘を求めて

安保、沖縄、ベトナム人民支援    

 60年代の政治の流れを追うと、安保条約廃棄、日韓条約粉砕、沖縄全面返還、ベトナム人民支援など連続して大きな全国的課題に直面しました。日本共産党は、確立した綱領の旗印のもとで、こうした政治課題とともに物価引下げ、重税反対、災害問題、公害問題など切実な要求をかかげ、府民を広大な民族民主統一戦線に結集するための活動に全力を注ぎました。
 しかし、60年安保で築かれた「安保反対府民共闘会議」は一時期再開されたものの、社会党大阪府本部、総評大阪地評(※1)などの態度によって中断されたままでした(※2)。62年の第8回原水禁大会直後からは、社会党内に「断固共産党と対決」などと主張する幹部もあらわれ、分裂的傾向がさらに強まりました。
 ※1 大阪地評は51年2月、総評にとって初のローカルセンターとして結成された。「産別会議」に対抗させようとしたGHQ(連合国軍総司令部)の思惑に反し、「全面講和」など「平和4原則」をかかげ、「ニワトリがアヒルになった」と称された。
 ※2 当時、帖佐義行大阪地評事務局長は「安保共闘にかんするかぎり、共産党は一片の不誠意もなかった。これは私が保証する」と発言していました(64年3月18日、地評、社会党と共産党との懇談で)

社会党、地評への申し入れ      

65年の大阪地評大会を報じる大阪民主新報(1965年9月25日付)

 日本共産党大阪府委員会は、社会党と地評に全国的課題での共闘をよびかけ、また「米原潜寄港阻止」など、さしせまった課題での統一行動を可能な形でとることをくりかえし追求しました。「ベトナム侵略反対、日韓会談粉砕の統一行動を」「安保共闘即時再開を」「佐藤内閣打倒」など共闘の申し入れは、65年だけでも、社会党府本部に11回、地評には9回以上に及びました。
 ところが65年の大阪地評大会では、全電通委員長の山岸章が提案した「全体結集を妨げる日本共産党のセクト的態度については徹底した批判を加え機械的な共闘をおこなわない」という修正案が可決されるありさまでした。
 社会党、地評はさまざまな障害をもうけて共闘の実現を妨げました。なかでも彼らは共産党を裏切り、党破壊のための攻撃を展開する山田六左衛門や志賀義雄などの集団を共闘に加えよと主張し、実際に地評大会であいさつさせるなど分裂策動に手を貸しました。さらに60年代後半には、学生運動などに巣くった「中核派」などトロツキスト(ニセ左翼暴力集団)や、彼らが牛耳った「反戦青年委員会」などを「共闘対象」「育成する」とのべ、彼らを厳しく批判する日本共産党にたいして、「排除は誤りだ」とさえ主張しました。

大阪を統一の拠点に

 統一の妨げとなる安易な妥協は許さない、きびしい批判を展開しながら、日本共産党は共闘を迫り続けました。
 そこには、「労働運動、民主運動のなかで分裂活動がとくに激しく、民社党の拠点である大阪で、労働者と人民の統一を打ち立てるために労働者、農民、勤労市民のあいだでねばりづよく活動してゆくことは、大阪の党に課せられた重要な任務」(67年の党創立記念日アピール)、「労働者階級の最大の密集地帯であり、独占資本の心臓となっている地帯――東京、大阪が統一戦線と革命運動の中心地帯たるべき」(68年12月の府委員会総会での松島治重委員長発言)との立場がありました。
 共闘再開は60年代はついにならず、70年代への課題となりました。(次回は「民青同盟の躍進」です)