時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第8話 「大大阪」のなかで

都市問題の激化  

 1920年代から30年代にかけて大阪は、「大大阪」といわれる時を迎えていました。1925年、東成・西成両郡44町村の市域編入(第2次市域拡張)によって大阪市は人口が133万人から211万人へ、全国一の大都市(当時世界でも6番目)となり、紡績工業では、大阪の9工場で全国の資本金46・9%、錘(すい)数で45・2%を占め、「東洋のマンチェスター」とも呼ばれました。
 「大大阪」は当時の関一市長(在任1923―35年)の名と、そのもとでの「御堂筋」「地下鉄建設」などと結びつけて語られます。しかし、「大大阪」は、明治以来の資本主義の急速な発展に加え、都市化への急膨張、過密化のなかで、労働者の貧困層の拡大、住宅とスラム化問題、ばい煙、河川汚濁など、さまざまなひずみを生んでいました。

「住み心地よき都市」への探求     

 東京高等商業学校(現一橋大学)教授の職を辞し、大阪市の高級助役から市長に就任した関一は、「都市政策」に大きな力を注ぎます。関が都市の弊害のうち、最も重要なものと考えたのは、「中下層階級」の住宅と居住環境の悪化でした。関は都市計画の目的は、このような弊害を除き、「住み心地よき都市」とすることにあるとします(「住宅問題と都市計画」)。
 「都市の誇りとするところは其面積の広狭や戸口の多少ではない。市民の福祉を増進すべき施設を整へ一国文化の進展と経済の振興とに対し最高の機能を発揮するにある…大大阪の建設は今日にはじまる」(「大阪市の諸問題」『大大阪』1巻1号)、「屋根瓦の海を出現せしむることをもって大大阪の完成と思ふものがあれば非常なる間違いである。緑色地帯の維持・保存によって将来の市民の福祉を確実にすることが都市計画の新傾向である」(「都市計画に関する新立法」同前2巻4号)。
 大都市のひずみを打開する流れは、1929年、普通選挙に基づく第1回大阪市会選挙にもあらわれました。「大阪市議選無産団体協議会」を母体に立候補した弁護士小岩井浄が東成区から2位で当選したのをはじめ無産政党が市会に進出し、有産者負担の強化と無産者負担の軽減を骨子とする税制の改革、無料診療所の設置、市営住宅の増設・改善などをかかげます。

「特別市制」の主張 

 関は、みずから都市政策を実現するうえで、「特別市制」を主張しました。当時の東京、大阪など6大都市を行政的にも財政的にも独立させ、内務大臣の直接監督の下におこうというものでした。当時の帝国議会でも議題としてとりあげられていきます。このなかで関がもっとも重きを置いたのは、国政事務権限を市長に委譲させることでした。この面から「東京都制案」が帝国議会に出された際も、他の5大都市も「特別市制」実現への思惑をもって応援します。
 しかし、この問題は、結局1943年7月、戦時体制強化の一環として、「東京市」を解体して、府域の他の市町村とともに「東京都」を編成して「帝都」とし、官選の都長官を置くという形で決着となり、長年、大阪市などが待望していた「特別市制」の実現は絶望的になります。
 いま「戦前にも大阪都構想があった」などとする論調がありますが、関らの主張は何よりも「大都市・大阪」のひずみ、問題を打開するために、国の権限移譲を含め、「大阪市」の自治のために強力な権限・財源を与えようというものでした。「一人の指揮官」でやりたい放題、大阪市の自治をなくす「大阪市廃止=都構想」とはおよそ無縁なものでした。(次回は「小岩井浄のこと」です)

(大阪民主新報、2020年9月6日号より)

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