時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第65話 関空建設

 「関空建設問題」は70年代から80年代、大阪の政治の一つの焦点でした。


原点は伊丹空港騒音問題       

 関空建設は、大阪国際空港(伊丹空港)の騒音公害除去を原点にしたものでした。
 「三〇〇〇メートル滑走路が完成し、(昭和)四五年二月五日ジェット機が入り始めると最初の一日で大きなショックを豊中側直下住民に与えた。騒音の余りのひどさに、あちこちの家から人々は飛び出して空を見上げた。路地で遊んでいた幼児は恐怖のため、そこにいる大人のだれかれなしにしがみついて泣き出し、未知の体験は、誇張でなく犬や猫まで逃げ場を求めて走り回っていた」――『静かな空を返せ 大阪国際空港訴訟 豊中住民の記録』は当時の模様を生々しく描きます。
 71年8月豊中側訴訟団の結成、夜9時から朝7時の飛行差し止め、損害賠償を求めての提訴。75年高裁での全面勝訴。そこから最高裁を舞台にしたたたかいが続き、ついに84年3月の和解へ、長いたたかいが続けられました。豊中市議、訴訟団副団長として先頭に立った岡忠義は、新千歳、羽田、福岡、那覇などの国内空港のなかで大阪空港だけ、夜9時までの運用時間に制限を課した住民闘争の意義の大きさを語ります。同時に、その規制をなんとかはずそうとする動きがいまも続くことに警鐘を鳴らし、「岡レポート」を発信し続けています。

関西財界の悲願  

 関西財界にとって、「関空建設」は悲願でした。「24時間運用空港」を手にすることが、大阪の「空の鎖国」を打ち破り、「関西の地盤沈下」を防ぐ「起爆剤」になる――どこまでも「もうけ第一」の発想でした。これにたちはだかったのは黒田革新府政の存在でした。
 76年、関空を「泉州沖」に建設するとの方針がでたさい、黒田知事は運輸省にかけあい、「関西空港計画の計画は、関係府県の合意を得て決定する。今後の調査の結果、泉州沖に建設することが全く不適当となった場合には、これを撤回し、その規模及び位置について改めて検討する」(76年9月「調査実施方針」)との回答をひきだします。
 関西財界は79年知事選で異様な執念を燃やし、「自社公民連合」の前面に躍り出て、黒田知事を「打倒」します。しかし、関空建設には、いくつもの重大な問題が山積みでした。「豆腐の上に金塊をのせる」といわれるほど軟弱地盤での巨大埋立工事になることに加え、国際空港なのに国の直営ではなく、中曽根内閣による「関空株式会社法」(84年)のもと、「民活第一号」として「株式会社」が運用する空港になったこと、建設工事がどんどん膨れあがり、これに大阪府・市の財政負担(出資)が強行されたこと、周辺地域整備にたいして特別の財政援助があいまいなこと――。

つきつけた問題点 

共産党の調査団(団長=浅野弘樹府議団幹事長)が建設中の関西空港を現地調査。現場の海上基地で工事状況について説明を受けました。写真は関空連絡橋の橋脚(右)と巨大な工事船=88年4月28日、泉州沖

 日本共産党大阪府委員会は79年7月、首相あてに、①新空港の建設費は全額を国が出すのか②新空港は現空港の「抜本的な公害対策」として建設するのか③国は、泉州の南部開発など地元周辺整備にも特別の財政援助をするのか④74億円もの調査費が科学的調査のために有効に使われているのか⑤建設可否の最終結論は府民の民主的討論にゆだねよと質問状をつきつけたのをはじめ、つどつど関空建設の問題点をつきます。
 しかし、中曽根内閣、岸府政、関西財界によるゴリ押しのなかで、87年に空港建設が着工されます。(次回は「88年参院補選・吉井勝利」です)。

(大阪民主新報、2021年10月31日号より)

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