時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第22話 日本共産党の憲法草案

 第3回大阪地方党会議が開かれたころ、国会では新憲法制定について大論議が展開されていました。
 日本共産党は1945年11月、いちはやく「新憲法の骨子」を発表します。
 「一、主権は人民にある」「二、民主議会は主権を管理する。民主議会は18歳以上の男女の選挙権、被選挙権の基礎に立つ。民主議会は政府を構成する人々を選挙する」「人民の生活権、労働権、教育される権利を具体的設備を以て保障」
 他の政党も「憲法案」をうちだしますが、「天皇ハ統治権ノ総攬者(そうらんしゃ)ナリ」(日本自由党「憲法改正要綱」)、「主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り」(日本社会党、「新憲法要綱」)と、いずれも「主権在民」を明確にできないものでした。
 46年6月には日本共産党の「新憲法草案」をまとめ、発表しました。7月には帝国憲法改正案委員小委員会に、主権在民の原則の明記と天皇条項の削除、戦争放棄条項に「他国征服戦争に反対する」「他国間の戦争に絶対参加しない」旨を明記して、日本の中立を憲法に明文化することなどをもとめる修正案(意見書)を提出しました。
 『註解日本国憲法』(法学協会)は、この当時、共産党案がもっとも民主主義的色彩の強い進歩的な案だったとふりかえります。

憲法9条をめぐって

 憲法9条は、46年1月24日の幣原首相とマッカーサーとの会談(幣原が肺炎にかかり、マッカーサーからもらったペニシリンで全快したお礼で訪問したことで〝ペニシリン会談〟とよばれる)における幣原首相の発言から始まったとされます(近著では笠原十九司『憲法9条と幣原喜重郎 日本国憲法の原点の解明』が詳細に跡づけています)。幣原はいまの門真市出身、豪農の家に次男として生まれました。
 新憲法は46年11月3日に公布されます。日本の情勢は、戦前の天皇が主権者であった専制的な政治体制から、戦後の主権在民の政治体制に根本的な変化をとげることになりました。日本共産党の結党以来の不屈のたたかいがいまの憲法にしっかりと刻まれたのです。
 日本共産党はいまの綱領で、憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざすことを明記しています。

共産党の地方議員第1号

日本共産党中央憲法委員会が新憲法草案の発表について出した声明(1946年6月29日)

日本共産党中央憲法委員会が新憲法草案の発表について出した声明(1946年6月29日)

 憲法には「地方自治」も明記されました。このもとで戦後初のいっせい地方選挙が47年4月におこなわれます。日本共産党は大阪市会に板並丈夫が当選して初の議席をしめ、府下市町村に19人の共産党議員を誕生させます。
 実は、戦後最初の大阪の共産党地方議員は、このいっせい地方選挙前から生まれていました。西尾治郎平。農民運動に早くから参加し、山宣の天王寺公会堂での演説をその場で聞いていたことは連載第6話でも紹介しました。西尾は38年に布施(現東大阪)市議となりますが、43年に召集され中国で従軍します。そして、帰国後、のちに衆院議員となる加藤充と出逢い、議員のまま日本共産党に入党します。議員の任を終えたのちも、「布施の顔」として職場にどんどんとびこみ、「赤旗」を広げる先頭にたちました(北川善一・元東大阪地区委員長「西尾治郎平に学ぶ」、「不屈」東大阪版)。74年には『日本革命歌』を著しています。(次回は「民擁同と49年総選挙」です)