時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第38話 矢田問題

「差別文書」    


「『矢田問題』11人の先生を守る会」が発行したパンフレット(1975年)

 いわゆる「矢田問題」の発端は、1969年3月18日でした。
 「部落解放同盟」(「解同」)矢田支部役員らが、木下浄(阪南中学校)、岡野寛二(矢田中学校)らの先生をよびだし、いきなり「差別者 木下浄一派を糾弾する」という文書をつきつけ、自己批判を強要します。「認めへんのやったら、今晩帰したらんぞ」と3時間にわたる脅迫で、「糾弾文書」を認めさせます。
 問題にしたのは、大阪市教組東南支部の役員選挙で配布した木下あいさつ状と連名の推薦文でした。「労働時間は守られていますか」「しめつけや管理がありませんか」と問いかけ、「進学のことや同和のことなど、きわめて大事なことですが、どうしても遅くなることをあきらめなければならないのか。…自ら要求し、自らかちとっていこう」とよびかけたものでした。これが「部落解放運動に反対し」「誹謗中傷するもの」だと、のりこんできたのです。
 2人はいったん屈服させられましたが、再度「糾弾集会」への出席を求めた「解同」にたいして、良心に照らして「あいさつ状は差別文書ではない」「一方的な糾弾会には出席しない」と態度を決します。

白昼の拉致    

 4月9日、「解同」幹部は、岡野と同僚の金井清、加美中学校の玉石藤四郎の3教師を、勤務中、「矢田市民館へこい」と数人がかりで車に押し込み、連行します。十数人で取り囲み、午後4時過ぎから暴言の限りをつくし、胸倉をつかんでの脅迫を続けます。
 市教組、市教委ともこの「糾弾会場」に臨んでいながら、見守るだけでした。救出要請を受けた弁護士がかけつけ、警察に不法監禁からの解放を求めましたが動かず、3氏が心身とも疲労の極みで解放されたのは午前2時過ぎでした。
 4月11日、「解同」府連に、不法監禁と暴力行為に対する謝罪を求めた弁護士に対して、回答は「差別者に対しては糾弾あるのみ」でした。
 部落解放同盟は水平社以来の歴史のなかで、日本共産党や民主的諸団体と共同の一員として友好関係にありました。ところが、朝田善之助委員長が「部落民以外はすべて差別者」などとする「部落排外主義」を打ちだし、共産党を脱落した上田卓三らが指導部に入り込むなかで、暴力・利権集団化していました。
 4月19日、3教諭は首謀者4人を逮捕監禁などで大阪地検に告訴します。「解同」は5月、いいなりにならない11人の教師と3人の弁護士の自宅及び周辺に「差別教師を糾弾する」などのビラ・ステッカーを張り巡らせます。
 驚くべきことに、市教委は「解同」が糾弾の対象にした教師たちを年度途中で担任を外し、大阪市教育研究所に強制配転します。市教組は11人にたいして規約にもない「権利停止」処分を科します。

日本共産党の役割 

 日本共産党は「矢田問題」の発端から、「差別でないものを差別と認めるわけにいかない」「仮に民主勢力に属する人が差別の誤りを犯した場合に、解放同盟の側から暴力で攻撃を加えることは有害でしかない」「解放同盟の方針について支持できるものは支持し、できないものは批判し、支持しない」との諸点を鮮明に、教師たちのたたかいを支持し、「解同」による共産党攻撃を断固として打ち破るたたかいをすすめます。
 「解同」の攻撃はさらにエスカレートしていきます。(次回は、「『解同』の無法とのたたかい」です)

 

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