時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第45話 72年総選挙

得票70万、6人全員高位当選     

 1972年11月20日告示、12月10日投票の総選挙で大阪の日本共産党は衆院大阪1区から6区まで全員が高位当選する快挙をなしとげます。

1区(定数3) 正森成二 6万7263 2位
2区(定数5) 東中光雄 11万3320 1位
3区(定数4) 村上 弘 22万970 1位
4区(定数4) 三谷秀治 11万6523 1位
5区(定数4) 荒木 宏 10万3086 1位
6区(定数3) 神崎敏雄 8万1775 1位

 得票総数は70万をこえ、前回69年から30万票を増やし、得票率も22%(前回14・1%)と大幅増。党創立50周年の年に歴史的な躍進を刻みました。自民党との差は得票率で3・6%と肉薄します。反共・親自民の社公民連合をすすめてきた民社党は6議席すべてを失います。

1区から6区まで日本共産党の候補全員が1・2位で当選した72年の総選挙。前列右から正森、東中、村上、三谷、荒木、神崎の各氏=72年12月11日

革新府政与党への信頼        

 12月11日に発表した大阪府委員会の声明は、画期的な大躍進の意義を4つの点でうたいました。
 第1、共産党の示した革新統一戦線と民主連合政府の樹立による70年代政治革新の展望とその現実的な政策に府民が明確な支持を寄せ、いよいよ自共対決の時代を鮮明にした。
 第2、府民が田中角栄内閣の「日本列島改造論」を柱とする自民党政治の反国民的反動的な本質を見抜き、審判を下した。
 第3、自民党となれ合いの政治をつづけてきた第2自民党の民社党と反共右翼野党再編の路線にきびしい審判を下した。
 第4、革新府政の与党として、これまで府民の要求実現のために努力してきた実績と、革新統一戦線の前進こそ国際革新と大阪の革新府・市政を守り発展させる保障であるというわが党の主張が大阪府民の支持をえた。

様変わりした国会 

 日本共産党衆院議員が全国で39人に躍進するもとで国会は様変わりしました。
 国対委員長を務めた村上弘は「赤旗」日曜版(73年10月7日付)のインタビューにこたえ、躍進後初の第71回特別国会をふりかえり、ひとことでいえば「裏取り引きやなれあい政治の国会から自民党の悪政と国民の要求との対決の舞台へ大きく変わり始めたことだ」と特徴づけました。それまでは赤坂などの料亭での〝国会対策〟でけりをつけることが横行していました。しかし、共産党の国会議員が増え、委員長招待会の簡素化などを提唱し、これはできにくくなりました。
 法案提案権を得た力で、公害関係法の抜本改正法はじめ共産党独自提案7件、他党との共同提案11件の法案を提案します。
 院内共闘も、従来の社公民共闘から4党共闘にすすみ、最後には共社公で田中内閣不信任案をだすまでになります。
 翌73年の第72回通常国会となると大きく増えた質問時間を活かし、不破書記局長が「分析化研」の放射のデータねつ造問題を追及し、原潜寄港を半年間ストップさせるなど多方面で真価を発揮しました。『週刊朝日』(74年3月15日号)は「総じて今回の集中審議はきめの細かさとデータ主義で共産党の圧勝という評価は動かないようだ」と評しました。
 このなかで大阪の衆院議員は、狂乱物価問題でゼネラル石油が「千載一遇」などと称しておこなっていた悪徳商法の追及(荒木宏議員)やのちにくわしくみるロッキード問題の追及(正森成二議員)など、抜群の力を発揮します。(次回は「津田羽曳野市政」です)

(大阪民主新報、2021年6月6日号より)

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