時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第3話 電車ストライキ

高野山へ立てこもる

『電車ストライキ』初版と復刻版

『電車ストライキ』初版と復刻版

 1924(大正13)年7月。大阪を揺るがすできごとが起こります。
 「電車ストライキ」。
 1924年、大阪市電労働者の切実な嘆願に一切応えぬ当局を相手に、2400人の「西部交通労組」組合員が、高野山にたてこもって6日間にわたってストライキを展開しました。
 6月27日、市電労働者が電気局長に「8時間乗務を6時間乗務に改め、中休を全廃すること」「職工工夫の給料及び賞与を増給すること」「懲戒規定を寛大にすること」など67項目の嘆願書をだします。ところが7月3日に出された回答は「断じてできない」。最低賃金確定の要求には「主義として容れぬ」と突き放します。
 そればかりか、ストライキを始めた組合にたいして、当局は、警察の介入で主要幹部を検束。「解雇」「組合解散」を叫び、7つの支部事務所にも襲いかかります。そこでとった戦術が、各支部から高野山に登り、そこで籠城することでした。春日出車庫の450名は大明王院に、天王寺の377名は蓮華院に、上本町365名は持明院に――。総勢は2400名となりました。

「市民の公敵」攻撃

 あわてた市当局は警察、在郷軍人会を動員、メディアも市電労働者に「市民の公敵」というレッテルをはり、大宣伝を始めます。一方、市電OB、運転経験者や工業学校の学生も動員して「にわか運転士」にしたて、無理矢理電車を動かします。
 高野山には、父親がいない労働者にも「チチキトク、スグカエレ」の電報が届くなど数百通が乱れ飛び、「ストライキ破りには日給を倍にする」などの情報も流されます。
 高野山の住職たちも意見は二分しました。「みだりにかばうことは当山の今後にも影響する」、しかし、「一旦山に登ったものを追い返すことは仏の教えに背く」。困り果てた住職たちは、最後は「国粋会」によるあっせんもおこないます。
 この当時、創立間もない日本共産党は、さまざまな弾圧のなかで、誤って、みずからを「解党」していました。しかし、小岩井浄が弁護士として高野山にかけつけるなど、個々の創立メンバーなどはたたかいの支援のために動きます。

時代をこえ、語り伝えて

 闘争ののち、「首謀者」及び「不良分子」の名の下に171名もの懲戒解雇、「西部交通労働組合」の解散などの「仲裁」をのみます。労働者側の敗北でした。
 しかし、この闘争がその後、大阪交通労組結成へとつながります。
 このたたかいを克明に記した『電車ストライキ』が1925年に出版されました。いまは赤茶色に変色した700ページにも及ぶこの本は、時代をこえ、読まれ、語り伝えられていきます。こんな言葉を添えて。
 「私も戦後すぐ、高野山闘争に参加した先輩から、この本をぜひ読んでこれからの時代に生かして欲しい、また後輩に渡しつづけて欲しいと言われた。君も読んだら次に渡し組合活動に生かして欲しい」
 2003年には、市電を戦後のレッド・パージで追われた仲間でつくる「交友会」が復刻・増補版として発刊しました。そこにはオリジナルに加えて、山宣(山本宣治)が書いた「電車生物学 序文」も収録されています。(次回は「評議会と労働農民党」です)

(大阪民主新報、2020年7月26日号より)