時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第62話 83年、3大選挙での後退

中曽根政権のもとで

政党を選ぶ比例代表制が初めて導入された83年の参院選。日本共産党は党そのものを押し出そうと奮闘しました。写真は宮本顕治議長が来阪して行われた街頭政談演説会=83年6月13日、大阪市北区梅田新道

 1982年11月、「戦後政治の総決算」をかかげた中曽根内閣が発足します。
 翌83年は4月にいっせい地方選挙、6月に参院選が決まっており、総選挙も予想される中で「83年決戦」が叫ばれました。
 この決戦を前にした81年、国会で公職選挙法が改悪されます。それは選挙時の政党機関紙販売宣伝カーやハンドマイクの使用禁止をはじめ、言論・表現の自由を奪い、“暗やみ選挙”をもたらすものでした。
 大阪府議会は82年12月、府議定数改正条例を強行します。府議選の全選挙区のうち、1人区・2人区が82%を占めるという小選挙区への改悪でした。日本共産党は「府民の参政権と住民意思の正当な反映を制限する」ときびしく批判しました。
 どちらも日本共産党の躍進を阻もうという狙いが明白でした。
 いっせい地方選挙の府議選で日本共産党は1人区になった住之江区、西淀川区、旭区で現有議席を失うなど10議席の後退となり、大阪市議選でも7議席を失うきびしい結果になりました。

史上初の「党名選挙」

 6月の参院選は、選挙区選挙と並び、比例代表制が導入され、政党名で投票する初の選挙となりました。日本共産党は、いっせい地方選挙の最大の教訓としても、「反共反撃を特別に重視する」「現に存在する反共風土偏見をうちやぶっていくため、党そのもののおしだし」「全有権者規模の大量政治宣伝を徹底して先行させる活動」を重視します。5月の大阪府活動者会議では、「政党拒否率」で、全国的に「共産党」が1位で40%、大阪でも38%というデータにふれ、「日本共産党」と書いてもらうためには反共偏見を正面から打ち破る活動が決定的だと訴えます。
 初の比例代表候補の一人、植田晃子(大商連婦人部協議会事務局長)は、業者のなかでも「沓脱さんはいえるけど、共産党へいれてくれとはよういわん」との声が寄せられる中で、小集会を重視しました。「共産党は、“しあわせを共に産みだす党”です」と切り出し、業者の苦しみの原因がどこにあるかと結びつけ、党の政策、歴史、理念を語りました。その姿に、ある業者婦人が“あれこそが共産党や、そやから共産党が大好きや”とがんばったという話に感激したと語ります。
 比例代表選挙では、「せいぜい300万」というメディアの予想を超えて416万票(大阪は54万票)、橋本敦ら5議席を獲得。“抜群の躍進”をかちとります。
 しかし、大阪選挙区でくつぬぎタケ子が痛恨の敗北を喫します。府委員会は「選挙指導における我流の問題」「地域セクト主義」「党建設と組織強化」などの問題を深く掘り下げます。

国政選挙での一進一退        

 12月におこなわれた総選挙では、大阪で正森成二(1区)、東中光雄(2区)、経塚幸夫(4区)、藤田スミ(5区)が当選したものの、3区・6区・7区で及ばず、4議席にとどまります。
 翌84年1月に開かれた第7回中央委員会総会は、国政選挙での10年間の「一進一退」を本格的に分析し、激しい反共攻撃のなかで綱領路線にもとづいて基礎的陣地を維持していることの重要性を確認しつつ、現状を根本的に打開し、新しい飛躍を実現する目標を打ちだします。これにもとづいて大阪府党の新たな巻き返しが開始されます。(次回は「反トマホーク展」です)

(大阪民主新報、2021年10月10日号より)

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