時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第23話 「民擁同」と49年総選挙

 1940年代の後半、労働者のたたかいは、47年の「二・一ゼネスト」に向けて高まります。マッカーサーの中止指令のもとで、ストが挫折したあとも、労働組合の統一行動のなかで労働戦線統一の機運を前進させます。47年4月には、大阪で、産別、総同盟、日労、大官公労、全船、電工、日繊、私鉄、海員など30万人を結集した大阪地方労働組合連絡協議会が結成されました。
 その一方、弾圧も激しさを加えます。48年4月には神戸と大阪の朝鮮人学校閉鎖令に抗議した大手前公園の3万人集会に、GHQの指令を受けた鈴木大阪市警局長が消防車からの放水と警官の発砲を命じ、16歳の少年が頭部を撃たれ死亡。抗議行動に参加した多数の朝鮮人や全逓大阪地協会長の村上弘らを逮捕し、米軍軍事裁判にかけました。これにたいして労働者、農民は人権擁護大阪地方共同闘争委員会をつくってたちあがります。

民主主義擁護同盟の結成       

 48年2月、第6回大阪地方党会議が開かれ、党組織は大阪市委員会と5地区委員会に改編され、戎谷春松が責任者となりました。中央委員会が民主主義と民族独立を保障し、民族を破滅から救う民主民族戦線結成をよびかけたのをうけて、統一戦線の結成に努力します。49年3月には、人権擁護大阪地方共同闘争委員会が発展的に解消して、大阪地方民主主義擁護同盟準備会を結成します。50年4月には「大阪地方民主主義擁護同盟」が正式に発足しました。
 「民擁同」(民主主義擁護同盟)は、加盟団体90余団体、構成員1100万という戦後の日本に生まれた最大規模の統一戦線組織でした。「民擁同」は、基本的人権と民主主義の擁護、人民大衆の生活の向上と安定、平和産業と民主的文化教育の発展、講和条約をはやめ日本の完全独立をはかる、ファシズムに反対し平和をまもる、すべての人民勢力の協同と統一の促進、世界の民主的勢力との提携という7項目の綱領をもって、活動をすすめました。

総選挙、35議席への躍進

 このなかで49年1月、総選挙で日本共産党は大きく躍進します。大阪では1区志賀義雄8万933、2区川上貫一6万5435、3区横田甚太郎4万4747、4区加藤充4万3010の得票でいずれも高位当選。5区坂井豊一も3万6227票を得て次点でした。当時、大阪の党員は8500人を数えていました。
 全国的にも一挙に35議席を得、「空前進出ぶりで、新国会分野は画期的変動」(「朝日」49年1月25日付)と叫ばれました。

「大阪民報事件」  

 第7回大阪府党会議で、指導機関として大阪府委員会がつくられました(下司順吉府委員長)。5月9日には府委員会機関紙「大阪民報」が創刊されます。
 7月にこの「大阪民報」が福井県敦賀での米軍による婦女暴行を報道しました。また住吉区の粉浜商店街角の民家に壁新聞がはられました。これにたいし、米軍と警察は800人の武装警官で府委員会を包囲して弾圧、下司府委員長や壁新聞を張った久田小太郎(後の大阪府議)はじめ120人の党員を、福井県では落合栄一県委員長などを「占領政策違反」だとして逮捕します。
 米占領下、松川事件など謀略事件があいついだ時期でした。(次回は「レッドパージ」です)

総選挙結果を伝える朝日新聞(1949年1月25日付)。
「民擁同」のバッジ(柏木功さん提供)