時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第49話 社会党府本部大会

亀田得治委員長が辞任        

 黒田知事2期目の選挙を目前にした1974年11月30日、社会党府本部大会が開かれ、亀田得治委員長が辞表を出します。11月26日の府本部執行委員会で「黒田不支持」が決められたことは「政治信条と衝突し、大会での答弁に堪えられない」からでした。
 大会は混乱。休会します。12月15日の続開大会は7時間半の論議の末、出席代議員245人中、「黒田支持」86、「不支持」155、白票4。「黒田不支持」を最終決定しました。大会で配られた資料には、黒田府政の誕生は「戦後の大阪地方政治史上に画期的な一ページ」とあったにもかかわらず。


黒田知事に共産党との決別を迫る   

 経過をたどると、9月20日の大阪地評大会「反共決議」の日、西風勲社会党府本部副委員長が記者会見で「共産党が反省しない限り知事選共闘は無理」とのべました。そして社会府本部は10月19日、黒田知事に日本共産党との決別を迫る「府政政策」を示し、回答を要求します。
 11月1日、黒田知事による回答は、「大局的な展望のもとに、社共両党間に、真の友好関係が復活せんことを切望」とありました。同時に、そこには「社会党が中心となって革新諸勢力の幅広い結集」とか、同和行政「窓口一本化」を是認した内容が含まれていました。

見解「革新府政の前進か変質かの分岐点」について記者会見する緋田委員長(奥右)、菅生副委員長(その左)=74年11月15日、大阪市天王寺区内

 日本共産党大阪府委員会は11月15日、「革新府政の前進か変質かの分岐点――社会党府本部の暴論と黒田知事のそれへの対応について」という見解を「大阪民主新報」と「赤旗」のどちらにも、一面全面をつかって発表します。社会党の態度を徹底批判するとともに、黒田知事に問題を率直に提起したものでした。
 「黒田知事がどの道を選ぶか、いまこそ良識と勇気と信念をもった誤りない選択が求められている。ことは誠実な無党派の学者としての期待のもとに、知事に選ばれた一人の学者の政治生命と生涯の評価に関する試練であるにとどまらず、大阪革新府政が革新性を保障しうるか否かの試金石であることをわれわれは重ねて強く指摘しておきたい」
 文字通り決定的な局面のなかで出された論文を、黒田さんはしっかり受けとめます。
 当時府委員長の緋田吉郎は、こう語ります。「71年が大阪での革新統一成立のドラマなら、74年は革新統一をいかに守り抜くか、『解同』の暴力から民主主義をいかに守り抜くか。そして、こうした原則をつらぬきながら府民要求を実現する革新府政をどう擁護するか。その大きなドラマでした。あの11月の論文は、中央委員会の指導のもとに、慎重な検討を加えてだしたものです。かなりのパンチカがあって、反響を呼びましたね。そして、私たちも期待したことでしたが、黒田知事が誰よりもしっかりと受け止めてくれた。これを機に、あの七五年知事選勝利への流れがきずかれていったんです」(大阪民主新報編『大阪の春 黒田革新府政物語』)

「私心なければ揺らぐことなし」   

 社会党府本部が「黒田不支持」を決めた夜、黒田知事が記者会見します。
 「社共の統一が崩壊の危機にあるのは、まことに遺憾のほかないが、第二期革新府政の勝利のために、私もまた、なんらかの役割を果たすべき責任がある」
 コメントには、次の二首がそえられました。「革新の 歩度の乱れは さもあらばあれ 歴史の流れに沿いて わが行く」「革新の 大義に生きん身の構え 私心なければ 揺らぐことなし」(次回は、「第2期黒田府政の樹立」です)。

(大阪民主新報、2021年7月4日号より)

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