時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第79話 西淀川公害訴訟

大企業10社を相手に

 公がいは、いつも ぼくらを くるしめています。
 お金もうけのために、なん人もの人が 死んで…
 もっと、人を たいせつにしてください。
 西淀川公害患者と家族の会『西淀川公害を語る』に記される小学校2年生の詩です。
 廃油再生工場(永大石油)が排出する亜硫酸ガスによって一夜にして朝顔が全部枯れ、飛んでいる雀が何羽も落ちて死ぬ。西淀川区では60年代なかばから公害反対の住民運動が高まり、72年に「西淀川公害患者と家族の会」が結成されます。
 公害裁判に踏み切ったのは78年4月(原告数112人)。以来、92年までに4次の提訴が行われます。求めたのは工場と自動車から排出される汚染物資の排出差し止めと被害者への損害補償。相手取ったのは、合同製鉄、中山鋼業、関西電力、住友金属工業、神戸製鋼所、大阪ガスなど大企業10社と国および阪神高速道路公団でした。

手渡したいのは青い空        

 公害患者の会は西淀川再生のまちづくり案もだし、90年から「共感ひろば――手渡したいのは青い空」の活動をスタートさせます。88年には「大気汚染公害をなくし、被害者の早期完全救済をめざす大阪府民連絡会議」が発足。89年から「100万署名運動」を展開します。
 91年3月29日、第1次訴訟地裁判決で、「被告企業から排除される汚染物資が原告らに健康被害をもたらした」と「共同不法行為」が認められ、公害企業10社に賠償命令が下されます。
 13年ごしのたたかいの勝利でした。判決後、大阪市役所前での報告集会には、公害被害者団体、労働者、市民生協のお母さんら6千人が参加。菜の花を手に、関西電力本社までデモ行進しました。
 95年3月2日には、第1―第4次訴訟で、企業側が大気汚染の責任を認め、解決金として総額約40億円を支払うという内容で和解します。被告企業は深々と頭を下げ、謝罪しました。浜田耕助原告団長は「提訴以来17年、原告726人のうち、171人が亡くなられた。その無念を晴らせた」と語りました。
 さらに7月5日、大阪地裁が初めて排ガス中の二酸化窒素と健康被害の因果関係を認める歴史的判決を下し、国・公団に6500万円の損害賠償の支払いを命じました(国・公団は控訴)。
 公害患者の会は、和解金の一部を拠出し、96年9月に「公害地域再生センター(あおぞら財団)」を設立します。財団は98年6月に「西淀川道路環境再生プラン」を発表するなどの活動をすすめます。

ついに最終決着  

支援者から贈られた花束を手に和解成立を喜ぶ森脇君雄原告団長(中央右)と井関和彦弁護団長(その左)=98年7月29日、大阪高裁正面玄関

 98年7月29日 国、公団と原告が和解し、21年目にして司法の場での争いが最終決着します。国道43号線の車線削減、自動車排ガス中の窒素酸化物の浄化に効果があるとされる光触媒の遮音壁への塗布、PM2・5の大汚汚染測定の実施など新たな対策に取り組むこと、原告と国・公団による「西淀川地区道路沿道の環境に関する連絡会」を設ける――。
 報告集会で、森脇君雄原告団長が「21年たたかいつづけ、ただ今、和解が成立しました」と勝利宣言。大阪市議、参院議員として一貫して公害患者とともに国、企業を追及してきた沓脱タケ子が「激烈なたたかいのなかで裁判に踏み切ったからこそ今日がある。政治を動かす大きな力になった」と原告や弁護団をねぎらいました。(次回は「ノック知事辞任」です)

(大阪民主新報、2022年2月13日号より)

 

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