時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第15話 大阪商大事件

市民のための大学として

大阪商大事件の舞台となった大阪市立大学

大阪商大事件の舞台となった大阪市立大学

 大阪商科大学(いまの大阪市立大学)は1928年3月、全国初めての市立大学として生まれました。当時市長の関一は「国立大学の『コッピー』であってはならぬ…大阪市を背景とした学問の創造が無ければならない」(「市立商科大学の前途に望む」)と期待をのべました。
 商大には、他大学に比して学問の自由、高い水準の研究が存在し、自由主義者、社会民主主義者、マルクス主義者など民主的・進歩的な研究者が多くいました。商大で「経済学辞典」(岩波書店)の編集が37年からおこなわれ、多くのマルクス主義学者も結集します。
 30年代には「読者会」(RS)に約100人の学生が参加し、31年6月には「商大学生新聞」(旬刊)を発行。軍事教練反対の声をあげます。救援会や第二無産者新聞、反帝同盟の班がつくられ、32年1月には出席制度問題に2週間の同盟休校で抵抗します。2月に弾圧されますが、9月ごろには新たなメンバーで自治学生会準備会を組織します。いかに生き、学ぶかを求める活動に多くの学生が参加し、新聞、雑誌、檄、ニュース等の購読配布もすすめていました。

「ケルン・グループ」への弾圧     

 42年、教授の転任反対運動や出席制度反対運動の中心になった学生らと助教授の上林貞治郎によって「ケルン・グループ」と名付けられた非公然・非合法のグループが生まれました。「一切の闘争・一切の形態の反抗を反戦・反ファシズムの抵抗運動に」を合言葉に、少人数の研究会・読書会を連鎖的に組織しマルクス主義の学習をすすめました。この研究会に参加した学生は100人に達します。
 43年、名和統一教授らのグループ、「日本貿易研究所」のグループへの弾圧の中から、ケルン・グループも特高に発覚、上林や学生ら約40人が検挙され、関係した教員への退職・転職の強要などの弾圧が吹き荒れます。
 しかし、獄中でも、大学内でも、突入したアジア・太平洋戦争の敗北を予想・予感した商大教員・学生が少なくありませんでした。上林ゼミの学生で、のちに登美丘町議・堺市議45年を務めた尾崎孝三郎は、42年に徴兵される際、友人の平井都士夫らから「この戦争は不正義の戦いで、やがて終わる。犬死するな」と忠告されたといいます。上林は取調にあたった特高の一刑事が「敗戦になれば、君たちの天下となる。私はただ、生活のために巡査になり、特高勤務となっただけで、生活のため警察に勤めているだけだ。敗戦になればよろしく頼むよ」と語ったといいます(『大阪商大事件の真相』)。

戦時下最末期のレジスタンス     

 3人の獄死者をはじめ大きな犠牲を強いられましたが、敗戦後、治安維持法の廃止と思想犯・政治犯全員の釈放のなかで、上林らも45年10月に釈放されます。12月の学生大会で「軍国主義教員の追放」が決議され、商大事件で弾圧され、退職した教員も復帰し、学生たちも復学。大学民主化への新たな潮流が広がります。
 「大阪商大事件のたたかいは、戦時下最末期のレジスタンス」であり、「日独伊枢軸国の世界征服戦争とたたかう世界の人びとと呼応し、日本の夜明けを前に、戦後の平和日本、自由と民主主義を準備したたたかいだった」――昨年秋、国労大阪会館で「現代から見る大阪商大事件――戦時下の反戦平和と自由のための抵抗」と題して講演した広川禎秀大阪市大名誉教授は、こう結びました。(次回は「大阪大空襲」です)

(大阪民主新報、2020年10月25日号より)