時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第17話 青年学生のたたかい

 「未来は青年のものである。…全国を席巻して一大青年運動を起こせ。新しき歴史は青年の手に創造される」――これは1923年創立された共産青年同盟(共青)の初代委員長、川合義虎の言葉です。
 戦前の日本共産党をはじめ多くの社会運動の担い手は青年でした。28年共産党三・一五事件の大阪の被告は10代16人、20代74人、30代9人。平均年令24歳でした。

全日本無産青年同盟

 26年8月1日、中之島公会堂で全日本無産青年同盟(無青)創立大会が開かれます。大会は、18歳選挙権や青年の言論・出版・集会・結社の自由、自由結婚権の確立など41項目の要求をかかげた「綱領」を採択。青年の全国的組織を完成させること、政治教育をすすめることなどを決めました。無青は、全国水平社青年同盟や労働組合評議会、日本農民組合の青年が組織の枠を越えて単一の合法団体として結成されたものです。
 大阪の委員長だった松本三益は当時、科学的社会主義の学習グループをつくり、時には夜を徹して討論しあったこと、岸和田紡績では社長面会を要求して座り込んだ時、めったに食べられなかった親子丼が出され、「これを食べたらたたかいは負けだ」と無言のうちに意思統一ができ、断固とした態度で会社側に勝利したとエピソードを語ります(「大阪民主新報」73年4月10日付)。

学生のたたかい 

岸和田紡績でのたたかいのエピソードを紹介した松本三益さんの手記(1973年4月10日付の大阪民主新報)

岸和田紡績でのたたかいのエピソードを紹介した松本三益さんの手記(1973年4月10日付の大阪民主新報)

 学生分野では、29年末までに大阪外語専門学校(のちの外大)、関西大学で社会科学研究会に多くの学生が組織されます。学生たちは大量の宣伝ビラの作成(謄写版での印刷)やビラ撒き宣伝行動隊に動員され、検挙されます。泉北郡信太山野砲兵第四聯隊で兵士にビラを届けともに配布したのは関大予科の学生でした(第7話)。
 30年12月5日、大阪歯科専門学校(今の大阪歯科大学)で歩兵第七旅団長による軍事教練の査閲が予定されていた朝、京阪牧野駅から同校までの通学路の電柱や校舎の壁などに、「学校教練反対」「戦争反対」「打倒日本帝国主義」等のビラが貼り付けられました。当局はあわてて回収しましたが、その後も学内に「反帝同盟大歯班」のビラが配布されました(『大阪歯科大学史』による)。歯科大学には共青や反帝同盟、新興医師連盟の班がありました。
 25年から始まった「学連事件」など学生を襲った特高は、「間断なき検挙」(内務省文書)をくりひろげます。32年には共青細胞が中心となって大阪鉄道局『唸るサイレン』、港区役所『付箋』、沢井製靴工場『考える靴』などの工場新聞や『大阪外語学生新聞』などの学校新聞が作られます。しかし、この頃を最後に共青が再建されることはありませんでした。

戦後、青年共産同盟へ 

 侵略戦争は多くの若者を戦場に駆り立て、犠牲にしました。45(昭和20)年、日本の男性の平均寿命は23・5歳でした。
 そのなかで共青、無青の不屈のたたかいは、戦後すぐ、46年1月に結成された青年共産同盟(青共)へと受け継がれます。
 民社党系の青年組織がのちに、「戦後の社会が全体として混乱と放心状態のなかで、はっきりした目的意識をもって行動した青年組織はこの青共であった」と語りました。公然と青年同盟の旗をかかげた活動は、戦後の青年学生運動の新たな奔流をうみだします。(次回は「日本共産党の旗、公然と」)

(大阪民主新報、2020年11月1日号より)