時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第46話 津田羽曳野市政

当選し支持者と共に喜ぶ津田一朗氏=73年4月23日

 1973年4月22日投票の羽曳野市長選挙。日本共産党員の津田一朗が、党派をこえた市民の良識の後押しで勝利します。その後4期16年に及ぶ羽曳野民主市政のスタートでした。
 市長選の最大の焦点は同和行政でした。「解同」による行財政の私物化と破壊のなか、71年度には同和予算が土木、教育、商工予算の2分1を占め、市の借金残高が予算総額を上回る63億円。市の建設事業の8割を「解同」派の「海原建設」一社が独占するありさまでした。
 市長選勝利は、「市民の公正な市政、みんなが納得のいく市政をという思いが爆発したもの」(津田市長記者会見)でした。

襲いかかる「解同」、市長監禁     

「解同」(奥)が市役所を占拠し津田市長を監禁。市民(手前)が救援を求めましたが警察は応えず、「解同」を守るかのように市民と対峙しています=74年1月14

 公正・民主の市政誕生に、「解同」は牙をむいて襲います。市営住宅の入居などについて「解同」による「窓口一本化」を許さない津田市長にたいして、市役所に動員して市長を監禁、自宅前に屠殺した「牛の首」を放置する脅迫もありました。
 74年1月14日は羽曳野市の新庁舎のオープニングセレモニーが行われる日でしたが、「解同」の1千人がなだれ込み、津田市長を市長室に監禁します。急を聞き、かけつけた市民、府内の民主団体の1千人をこえる人々が市庁舎前に集まり、市長への激励と「無法をやめよ」のシュプレヒコールを繰り返します。救出要請に応えない警察を前に、「自分たちで救出するしかない」と日本共産党国会議員団を先頭にした救出団が庁舎に入り、それを警察が警備する形で津田市長を庁外に連れ出すこともありました。
 これに対して2月6日には「暴力反対、民主主義擁護、羽曳野市政を守る」5千人集会が開かれるなど、府的な支援体制がとられました。

無法に屈せず、財政再建       

 津田市長は、無法な市庁舎占拠や暴力・脅迫に一切屈せず、不公正な同和行政にメスをいれます。同時に、市財政の自主再建をやりとげます。市職員とも一丸となって、住民本位の効率的な行政へ、人件費の圧縮や行政効率化運動、経費節約運動などの努力を注ぎます。職員の討議で下水、清掃、土木の現場を一つにして「維持管理課」をつくり、市民の生活問題をすみやかに解決する手立てをとったことはたいへん喜ばれました。
 こうした財政再建、市民本位の市政運営には、最初の4年間だけでも北海道・稚内市から鹿児島まで全国の自治体から127回にわたる「行政視察」がなされました。

「日本の宝」    

 津田羽曳野市政をささえたのは、津田市長就任時、定数22のうち2人しかいなかった日本共産党議員団を半年後に4人、さらに4年後に6人へと前進させた力でした。その一人、黒川寿満男は語ります。「津田さんが『公正・民主』をかかげて立ち上がった姿に、家からでてきたおばあちゃんが手をあわせておがんでくれた。そして津田勝利でお隣の松原市でも土橋(忠昭)さんが立ち上がり、富田林市の内田次郎市政など、河南地方の6市のうち3市が共産党を与党とする市政になった。『解同』の圧力に屈せずたたかった力です」
 77年の日本共産党第14回大会、不破哲三書記局長による中央委員会報告では、羽曳野市政の同和行政の是正、市職員、市民と一体になった財政再建、効率的な市政運営は、「わが党と日本の革新の事業の新しい宝」とうたいました。(次回は「タケ子 自共対決の勝利」です)

(大阪民主新報、2021年6月13日号より)

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