時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第33話 中国の干渉とのたたかい

西沢隆二の転落  

 66年3月、日中両党会談で毛沢東が、いったん合意しかけた共同コミュニケを突然破棄した同じ日でした。毛沢東一派の専制政治の確立をはかる「文化大革命」(文革)が開始されます。この過程で毛一派は、「アメリカ帝国主義、ソ連修正主義、日本反動派」と並んで「日本共産党」を「4つの敵」の一つにあげ、公然と干渉攻撃を展開します。
 この干渉のなかで、自主独立の立場をかなぐり捨て、中国いいなりに党を脱落したのが、志賀に代わって衆院大阪1区の候補者になった西沢隆二(ぬやまひろし)でした。西沢は、66年8月の9大会6中総で、「毛沢東思想の旗を掲げるべき」と第10回党大会議案にひとり反対を表明。その後、「日本共産党の内部でも、あの紅衛兵(※)運動をまきおこす」と公然と分派活動を呼びかけます。
 党は、10月の7中総で西沢を除名。大阪府党は、10月15・16日の第21回府党会議で、「いかなる外国勢力の干渉をも断固として粉砕する」ことを誓いあいます。党は「赤旗」に「極左日和見主義者の中傷と批判」(67年4月29日)「今日の毛沢東路線と国際共産主義運動」(67年10月10日)などの論文を発表。党員がむさぼるように読み、たたかいの力としました。
※紅衛兵(こうえいへい) 毛沢東が組織した学生運動体。赤表紙の『毛沢東語録』を振りかざしたことが名の由来。

「国貿促」事件  

今橋への仕打ちを報じた大阪民主新報1967年4月24日付

 干渉は、国際友好運動や日中貿易関係の経済団体にも持ち込まれます。
 66年12月、日本国際貿易促進協会関西本部(国貿促)の事務局員だった竹馬稔(のちの「大阪安保」事務局長)は、「反中国分子」を排除するやり方を批判し、不当解雇されます。入党間もなかった今橋(旧姓前川)巳佐子も「文革礼賛」強制に疑問を呈しました。
 すると、それまで「家庭的な雰囲気」だった職場の同僚たちから暴行や嫌がらせを受けました。「前川さんを罵る『カベ新聞』を事務所いっぱいに貼り出す」「机の上から引き出しの中、本の間にまで『反中国』『スパイ』『出ていけ』のビラを貼りつける」「机の上には紅衛兵をまねた三角帽子」「椅子ごと部屋からほおり出そうとする」(67年4月24日付「大阪民主新報」)。一般紙や週刊誌も「貿易団体で紅衛兵騒動」「机に三角帽、学習強制」「女子職員が孤立」(同4月20日付「読売」)と報じました。
 国貿促は機関紙やビラなどで日本共産党を繰り返し攻撃。68年10月4日、党府委員会が呼びかけた抗議集会・デモには、党地区委員会や民主団体、労働組合などから約1千人が参集しました。
 今橋・竹馬は不当差別・解雇の撤回を求め提訴、いずれも勝訴し、72年12月竹馬の「解雇撤回」をかちとりました。今橋は、激しい干渉攻撃とたたかった日々を「私の人生の中の誇り」と振り返ります。

砂間・紺野集団リンチ        

 67年8月、毛沢東一派は西沢らを北京に「賓客」として招待、日本国民に、日本共産党に反対する闘争を公然と呼び掛けます。
 8月3日~4日、砂間一良中央幹部会員候補と紺野純一「赤旗」特派員が、北京空港で紅衛兵から集団リンチを受け重傷を負う事件が引き起こされます。9月25日、大阪港に帰国した2人を2千人が出迎え、翌日中之島公会堂で開かれた歓迎集会には3500人が参集。毛沢東一派の暴行を糾弾しました。(次回は「共闘を求めて」です)

(大阪民主新報、2021年3月7日号より)

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