時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第10話 「赤旗」と大阪のメディア

 「しんぶん赤旗」の前身「赤旗」(せっき)は、1928年2月1日非合法新聞として創刊、35年2月20日弾圧により第187号で発行停止を余儀なくされるまで、侵略戦争と植民地支配反対の立場を貫きました。大阪発祥の商業新聞「大阪朝日」「大阪毎日」(いまの「朝日」「毎日」)との対比でみていきます。

「満州事変」    

 1931年9月18日、中国・奉天郊外の柳条湖で、日本の軍部・関東軍が自ら南満州鉄道の線路を爆破し、それを中国軍の仕業として戦火を開いた「満州事変」。当時満州の吉林駐在総領事だった石射猪太郎が、事件勃発の「情報を聞いた瞬間から、私はその真実性を疑った」と自伝で書くほど、その謀略性は明らかでした。
 しかし商業新聞はこぞって軍部の発表を垂れ流し、「支那にして誤りあれば、これが是正のためにわが国は機宜の措置をとらねばならぬ」「わが国のよって立つ主義精神は一である。すなわちわが権益の擁護と、わが帝国の威信と名誉の保持である」(「大阪毎日」20日社説)と軍部の行動を正当化、戦争拡大を認める論まで張りました(岡満男『大阪のジャーナリズム』)。
 これに対し「赤旗」は、「ブルジョア新聞雑誌は口を揃えて今度の戦争の『原因』を支那兵の『横暴』『日本を馬鹿にした態度』と決めている。しかし乍(なが)らそれは全然虚偽である」と喝破。「真の原因は日本帝国主義者が当面している危機を切り抜ける為に新しい領土略奪の為の戦争を準備していたところにある」「日本の軍閥が金融ブルジョアジーの指図に従って行った軍事行動は決して偶然でもなければ『突如』として起こったものでもない。それは実に精密に計画され、実行されたのである」(31年10月5日付)と、事件の謀略性とその背景にある財閥の存在を鋭く暴いたのです。

大阪の党が登場  

 「赤旗」には、大阪の党がたびたび登場します。
 「天皇の専横議会に反対し 大阪労働者闘う 日常闘争を通じ党の強化へ」――33年2月10日付では「労働者の賃銀値上、失業者に仕事を!戦争反対!共産党に対するテロル反対!天皇制打倒!」と掲げ、労働者の要求と結んだたたかいを紹介。「大阪×××工場に於けるたった一人の党員が恋愛問題で、首になりそうな一人の女工さんの問題をとり上げ、首切り反対を叫んで全従業員を一人残らず動員し、工場長のところに押しかけ、其の場で従業員大会を開いて即時首切りを取り消させた」。この中で大衆の信頼を受け、「たった一人の党員から××の党細胞が建設された」――非合法の中でも労働者の中での細胞(支部)建設に挑む党の姿が浮かびあがります。 

「南京占領」    

 「赤旗」停刊後、日本のメディアが行き着いた先は――。37年12月、日本軍が中国の首都南京を占領。『大阪市史』は当時の新聞について、「南京攻略の報道に熱中し…紙面の大部分が熱に浮かされたような記事で満たされた」と伝えます。以下『大阪市史』(第7巻)より引用。
――「大阪朝日」朝刊一面の大見出しは八日付け「南京城今や我が掌中」、九日付け「南京城外、壮絶の大激戦」十一日付け「きょう午迄に勘降回答要求」と続き、十日第二夕刊(十一日付け)は「南京遂に陥落す」、そして11日付け朝刊は「皇軍万歳!万万歳!」「膺懲(ようちょう)の師 南京を陥れ 武威赫々(かっかく)全支を圧す 今払暁から残敵大掃蕩」などの見出しをつけた――。
 しかし日本軍が南京を占領したのは13日夕刻であり、大本営陸軍部が「攻略せり」と発表したのは13日午後11時20分。実際より3日も早く新聞が南京占領を告げたのです。その姿は、権力と一体化し、国民を戦争に駆り立てるプロパガンダそのものでした。(次回は「無産者医療」です)

(大阪民主新報、2020年9月20日号より)