時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第40話 60年代の党建設

 60年代の激動のなかで、たたかいをささえたのは日本共産党建設でした。
 第8回党大会(61年)当時、党員約7千、読者約2万7千だった府党組織は、第9回党大会にむけた拡大月間で総合2カ年計画の中間目標を総達成し、党員は2倍近く、読者は2・4倍に。つづいて第2次党勢拡大と教育活動の総合2カ年計画を立て、66年の第10回党大会では日曜版読者を倍加、日刊紙読者を1.7倍に。70年7月の第11回党大会時には、2万6千人余の党員、約17万6千人の読者をもつ党へ成長を遂げました。 

全党員が中央決定の立場に

 その道は平たんではありませんでした。第8回党大会まで、大阪府委員会の指導部は「綱領反対派」。当時、「党勢倍加運動」が提起され、第7大会6中総では「党を拡大強化するために全党の同志におくる手紙」に呼応した大運動がよびかけられたのに、「政策さえ正しければ党は自然に大きくなる」といって党勢拡大の独自追求に反対しました。その影響の克服が大きな課題でした。
 党中央の指導もえて、60年4月の第13回臨時府党会議の「府党の団結強化のための決議」によって党建設上の大きな弱点を克服する方向にむかいます。努力方向として強調されたのは、何よりも中央決定にもとづく活動を貫くこと、そして大衆活動と党建設を車の両輪として握って離さず追求することでした。当時の松島治重府委員長は、「党の団結のためには中央の決定の立場に全党員が立つことだ、『アカハタ(赤旗)』をよく読んで、中央の決定に立つことが、党の戦闘性を高めることだ」と繰り返し語りました。
そしてこの時期に、無数の機関紙活動家の献身にささえられ、日刊紙、日曜版の敏速で安全な配達・集金網を全党的につくりあげ、「機関紙中心の党活動」を確立するための不屈の努力が重ねられ、学習教育活動などでも基礎が築かれていきました。

大阪アカハタまつり

2万人が参加した第1回大阪アカハタまつりの様子を伝える大阪民主新報(1962年4月21日付)

 62年4月15日に、「第1回大阪アカハタ祭り」が服部緑地で開催され、2万人が集いました。メーンの文化行事は御諏訪太鼓で、大阪中の読者、支持者が交流しました。衛都連委員長の榎原一夫(のちの吹田市長)が参加し、「民報」のインタビューに、「18年前は戦争の練習でここにきたけれど、きょうは平和のつどいだ。本当に感無量」と語りました。
実は、当初4月8日開催予定だったのが、前日までの天気予報は「雨」。当日朝6時半に気象台に問い合わせても「さらに悪くなる見込み」といわれ、急きょ延期に。ところが実際は十分開催できる天気でした。初めての「まつり」は、そんな悪戦苦闘のなかでの成功でした。

玉造に事務所建設

 府委員会は65年4月1日、天王寺区宰相山町(現空堀町)に新事務所を建設します。戦後直後の旭区赤川町、2代目の西成区今池町、3代目の南区北桃谷町(現中央区上本町西)に続く、4代目の事務所でした。
 当時の事務所建設の事務を担った伊藤伝一は語ります。
「『上二』(3代目事務所の愛称)が老朽化して、(略)それで場所の確保から、当時の財政部長だった戸松喜蔵さんと一緒にかけめぐった資金ぐり、工事の進捗管理と、そりゃたいへんでした。近隣のみなさんの理解を得て、完成した時には『私たちの新しい砦』と喜び合いましたね」。
 府党組織は文字通り党と民主勢力のたたかう「陣地」を固め、70年代を迎えます。
(次は「公害反対闘争」です)

(大阪民主新報、2021年4月25日号より)

 

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