時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第34話 民青同盟の躍進

7大会9中総    

 戦後、青年運動の分野では青年共産同盟(青共)が飛躍的な発展をみせましたが、「50年問題」(第25話参照)の深い傷のなかで、「民主青年団」(のちの民主青年同盟=民青)に移行した時には、大阪の同盟員数が10分の1に激減するなど、大きな困難に直面しました。その民青同盟が1960年の日本共産党第7大会9中総「民主青年同盟の拡大強化のために」とその直後に開かれた民青第6回大会での「青年同盟のよびかけ」と「規約」採択を転機に、新しい前進を開始します。

府立体育会館で「民青はたびらき」

民青大阪府委員会が発行していた「大阪青年新聞」の創刊号

 62年3月には、扇町プールで民青、社青同(社会主義青年同盟)、大阪地評青年婦人部共催で「春闘、革新府・市政実現のための青年婦人大集会」を開催。この年、民青大阪府委員会は「民青新聞」拡大目標に続いて同盟員拡大目標を全国で最初に達成します。
 65年1月13日、民青大阪府委員会主催の「民青はたびらき」は、なんばの府立体育会館に8千人の青年を集めて開催されます。それは60年代前半の民青躍進の象徴でした。松島治重党大阪府委員長が大阪の民青が質量ともに拡大強化されていることを喜び、150万の青年人口にみあった強大な民青同盟の建設を、と激励しました。須藤五郎参議院議員は自作の曲を披露、満場の喝さいを受けます。
 この年の暮、12月3日には民青大阪府委員会の機関紙「大阪青年新聞」が創刊されます。「大新」は62年に発刊された「娘と若もの」をより広い読者層にと改題・発展させたもので、全国の民青の中でも都道府県レベルの機関紙を発行したのは、大阪と京都だけでした(「大阪青年新聞」は1978年3月22日まで週刊紙として発行され続けました)。
 そして66年3月15日、森之宮に民青大阪府委員会事務所を完成させ、竣工式には村上弘党府委員長代理が、「大阪の青年運動に新しい転回を画す」とあいさつしました。
 65年から民青大阪府委員長を務めた藤繁曙は当時を振り返り、「大阪青年新聞の創刊と民青会館の建設、それと民青専従者の健康保険もこの時期に確立しました。たたかいの勢いでしたね」と語ります。

親身な援助

 民青同盟の前進のために、党大阪府委員会は惜しみない援助をすすめました。
 党と民青共催の大学習会の開催はもとより、「大阪民主新報」には「民青の拡大運動を支持し、成功させよう/すべての細胞が民青班を」「民青同盟への指導と援助を正しくつよめよう」などの「提言」が節々でだされます。
 69年には青年学生の実情を党がリアルに知るために、「松島府委員長ら、民青および府学連幹部らと青年、学生問題で懇談」という企画が組まれました。これは4ページ建ての「民報」の1ページ分をまるまる使った特集を8回連続ですすめる(※)という意欲的なものでした。
※見出しを拾うと、「休暇もとれず長時間労働 零細企業の青年労働者」「8割が大学の現状に不満 真剣に話し合う大学生」「悩みにどう応えるか みんなとともに恋愛の話も」「幹部の能力、力量を高めること」など
 60年代の青年学生運動の躍進が、70年代の党躍進の一つの原動力となりました。(次回は「府学連の再建、学園暴力一掃のたたかい」です)

(大阪民主新報、2021年3月21日号より)

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