時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第48話 労働戦線の攻防

「38単産アピール」 

 労働戦線では、総評大阪地評による社会党支持義務づけ、大阪同盟による民社党支持義務づけが、労働者の基本的人権と組合民主主義をじゅうりんし、革新統一の大きな障害でした。そんななかで、1969年11月1日、中央38単産が「全民主勢力の統一のためのアピール」を発表。大阪では62の単産・単組が「38単産アピール支持労組連絡会議」を結成し、71年3月11日に「統一戦線促進大阪労組懇談会」へと発展します。「統一労組懇」は黒田革新府政樹立に大きな力を発揮しました。

大阪地評の「反共決議」       

73年の大阪メーデーで、日本共産党の村上弘府委員長のあいさつを壇上によじ上って妨害する全金田中機械支部の組合

 しかし知事選勝利直後から、革新統一つぶしを狙う反共逆流が激しさを増します。それは「共産党のヤツらとガキども」「共産党の犬」(71年9月 片山甚市全電通近畿地本委員長)など口を極めた異常なものでした。
 74年8月には、全金大阪地本、動労大阪地本、全電通近畿地本、全逓大阪地本、全林野大阪地本などの指導部が「日本共産党による労働組合支配介入糾弾共闘会議」を結成。同年9月の大阪地評大会では、「日本共産党に反省をもとめる決議」を採択、大会終了後の記者会見では、「共産党の反省がないかぎり、来春の知事選挙を含み今後共闘はできない」と宣言しました。

統一めざす潮流の前進        

74年の大阪メーデー。労組らしい要求を一切掲げず日本共産党粉砕だけ主張する全金田中機械支部の組合員

 74年10月、大阪地評の中江平次郎議長らが日本共産党大阪府委員会を訪ね、地評大会の「反共決議」を骨子にした「申し入れ書」を持参します。応対した菅生厚副委員長、福井駿平労働組合部長らは、「共産党の方針の重大な変更を迫り、職場における共産党員に転向を強要してはばからない許しがたい共産党への内部干渉」であり、その撤回を求めます。そして、「申し入れ」の一つ一つに、「共産党員に、社会党に選挙募金し、社会党の支持をひろげ、社会党のビラをまき、社会党へ投票せよというのか」「社会党一党支持に固執している総評が労働戦線統一の母体たりうるのか」と問うと、地評側は、説明も回答もできずに席をたち、部屋を出ていく始末でした。
 革新統一を求める勢力が拡大強化されるなかで、73年1月、大阪府職労が大会で統一戦線支持組合となり、統一労組懇への加入を決定。大教組は72年1月臨時大会で「矢田事件」組合員の現場復帰闘争支援の決議を採択。その後、「解同」路線推進の「同対審共闘」からも離脱します。73年の臨時大会で政党支持の自由、革新統一推進の立場の役員が多数を占めます。大阪統一労組懇は府内全域に影響をもつ約13万人の組織へと前進します。
 70年6月3日に関西勤労者教育協会(53年結成)が扇町プールで、「安保条約をなくし沖縄をとりもどす勤労協2万人学習大集会」を成功させるなど、労働者に革新統一の流れを広げるうえで、大きな役割を果たしました。
 民間大経営のなかでも、「思想転向か、退職か、どっちや」と迫られ、61年8月に不当解雇された松下電工・橋本邦久が、77年3月に職場復帰を勝ちとるなど、職場に自由と民主主義を求める運動が前進します。
 労働戦線の2つの潮流が激突する中で、75年、第二期黒田革新府政をめざす知事選挙が迫ります。(次回は「社会党の脱落」です)

(大阪民主新報、2021年6月27日号より)

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