時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第54話 地方議員第一党

あいつぐ躍進   

 1970年代は、地方議員選挙でもあいつぐ躍進を記録します。
 71年のいっせい地方選挙前半戦、府議選で3から14議席に、大阪市議選では7から13議席に前進します。府議選・松原市選挙区での山田芳一の当選は、都道府県議選で定数1を勝ち抜いた全国初の快挙でした。大阪市議選の得票率は第二党の座を占め、府・市議団ともに議案提案権を獲得します。
 後半戦では立候補した党候補の70人全員が当選。大阪の地方議員総数は、改選前の82から126議席、第三党となり、得票数でも4年前から約2・3倍に躍進します。堺市議選で初当選した吉井英勝をはじめ、候補者の2割が20代の若者でした。住民運動の先頭に立っていた共産党候補への期待は高く、7人がトップ当選でした。
 73年6月には、堺市の府議会補欠選挙(定数2)で藤田スミが自民党を打ち破り初当選します。党では府議会初の女性議員の誕生。党議席は15に、民社党を抜いて第三党となります。

空白克服と開拓  

 71年いっせい地方選では、四條畷市、藤井寺市、狭山町でいずれも最高点で初議席を獲得。無投票だった熊取町を含め、それまで共産党議員がいなかった4つの「空白自治体」を克服します。72年10月太子町では中野好博がトップ当選、73年2月の河南町議選では小笠原善久が無投票で当選します。

千早赤阪の活動をふりかえった徳丸の半生記『村に生きて』

 73年4月、府内唯一の村である千早赤阪村議選。空白克服へ移住して村に下宿し、立候補を予定していた女性が、家主から「共産党から村議に立候補するなら家は貸せない」と追い出され、立候補を断念せざるを得なくなります。その時、村にある職員寮にいた青年が、党河南地区事務所に「赤旗」日刊紙を申し込みに訪れました。これをきっかけに口説き落とされ、投票日1カ月前に立候補したのが、のちに11期44年にわたり村議を務めた徳丸幸夫でした。当初は街頭演説に立つのは徳丸だけという選挙だったのが様変わりし、激戦になりましたが、次点と2票差で最下位当選を果たします。
 「『共産党の議員がきた』と役場の職員も緊張して仕事していた」と徳丸。村議会も、それまで「議場でスルメをアテに酒を飲んでいる」「議員がだれも質問しない。議事録も議会事務局もない」。初質問で徳丸が12項目の事前通告をすると、助役がとんできて「これを全部質問するんですか」と聞くほどでした。そんな議会を「住民に信頼してもらえる議会へ」と奮闘を続け、8年後には議席を2議席、15年後には3議席、議会招集権を獲得するまでに前進します。村が夏のごみの週2回どりを試験的に始めたが、10月から元に戻そうとした際、「引き続き実施するよう署名をやりたい」と婦人会の会長に相談すると、その翌日に村長が「引き続きやるから、署名は控えて」といってきたこともありました。
 1998年4月、徳丸も、河南の地方議員団とともに参加した全国地方議員会議。不破委員長は「空白克服の無数の経験のなかでも紹介する値打ちがある」として千早赤阪村の活動をとりあげました。

革新自治体の広がり

 79年4月のいっせい地方選の結果、日本共産党は府内すべての自治体に、合計211(府議19、大阪市議18、一般市町村議174)の議席を獲得、公明党を抜いて地方議員第一党となります。日本共産党を与党とする革新自治体は16市3町(79年1月)に広がりました。(次回は「大阪三合同」です)

(大阪民主新報、2021年8月8日・15日合併号より)

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