時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第26話 朝鮮戦争のなかで

 1950年6月25日、朝鮮半島では南北に分断する38度線で大規模な軍事衝突が起こり、全面的な内戦が始まります。
 日本はアメリカ軍の前進基地とされ、デモと集会の全面的禁止、アメリカ占領軍とその政策の批判や反対は「占領政策違反」の名で弾圧されます。レッド・パージが吹き荒れ、民主主義擁護同盟も解散に追い込まれました。一方、財界・大企業は「動乱ブーム」の特需で潤い、息を吹き返します。
 このとき党は分裂と混乱のさなかにあり、これらの弾圧と有効にたたかうことができませんでした。

ストックホルム・アピール署名    

 そのなかでも多くの党員、党組織は独立平和のための活動をさまざまな形で続けていました。
 50年11月、トルーマン米大統領が朝鮮戦争で原爆を使う可能性を示唆したとき、共産党員は抗議にたちあがります。被爆者であった峠三吉は、『原爆詩集』を編みました。峠は豊中市出身。被爆50周年の際、豊中市は「ちちをかえせ ははをかえせ」の文字を刻んだ峠三吉顕彰詩碑を建立。いまも岡町図書館前にあります。
 50年3月にストックホルムで開かれた世界平和擁護大会が提唱した原子兵器の絶対禁止などをもとめるストックホルム・アピール署名は、大阪で75万4千筆、全国では640万筆が集められ、その後の平和運動発展の基礎をきずきました。
 この年、6月の参院選では、全国区で須藤五郎ら3人が当選します。 
 ※須藤は戦前、宝塚歌劇団の作曲家、指揮者でした。1930年に共産党幹部をかくまったと治安維持法違反で検挙されます。この時、逮捕した豊中・岡町署の警察官が須藤の蔵書を読む中で、「無産陣営に飛び込む」と辞表をだします。「毎日」32年1月28日付は「共産党狩りの殊勲警官が無産運動へ飛込む」と報じました。須藤の入党は48年のこと、参議院選挙では4度当選します。いまも残る「豊中市歌」は、市制10周年で同市が46年に公募した詩に、須藤が作曲したものです。

吹田事件     

 朝鮮戦争2周年の52年6月25日、朝鮮戦争に反対し、平和を求める集会が米軍の出撃拠点となっていた伊丹基地を見下ろす大阪大学北校の校庭で開かれました。その参加者が夜を徹して行動し、翌朝、吹田操車場や吹田市内をデモ行進します。このデモ行進に対して警察が弾圧。「騒擾(そうじょう)事件」として111人を逮捕・起訴します。うち49人は反戦行動にともに立ち上がった在日朝鮮の人々でした(いわゆる「吹田事件」)。
 植松元夫団長をはじめとした裁判闘争は、63年6月、地裁で「騒擾、威力業務妨害」に関して全被告の無罪を宣告するまで11年。さらに最高裁での確定まで二十数年に及びました。
 メディアが共産党の軍事方針に基づくものだと攻撃するなかで、弁護団の山本治雄、石川元也、東中光雄らは、騒擾罪で一網打尽に立件するために持ち出した「共同意志の存在」などの根拠を一つ一つ打ち破り、「本件デモ行進の実態と目的は憲法で保障された表現の自由の行使」と論陣をはり、判決でも認めさせます。
 被告とされた1人、酒井猛は地裁判決の直後、11年の間に被告と家族から職場を奪い、6人の被告の生命まで奪った長期の非人道的裁判に抗議し、「吹田事件」は「日朝両国青年の反戦・平和・愛国の国際連帯行動」であり、「今も誇りを持って語ることが出来る行動であった」(「十年裁判――吹田事件の真相」 「日本と朝鮮」63年10月15日付)とのべています。(次回は「川上貫一のたたかい」です)


「ちちをかえせ ははをかえせ」の文字を刻んだ峠三吉顕彰詩碑(豊中市の岡町図書館前)

 


「50年問題」を総括し団結回復の第一歩となった第1回大阪府党協議会の決議集