時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第25話 「50年問題」

党史上最大の誤り 

 日本共産党の歴史のなかでも、最大の悲劇、最大の誤りは「50年問題」です。
 ――1950年1月6日、コミンフォルム(ヨーロッパ共産党・労働者党情報局)の機関紙に掲載された論評「日本の情勢について」。その背景にあったのはスターリンによる日本への武装闘争のおしつけをはじめとする干渉作戦だった。
 ――これに呼応した徳田球一、野坂参三らが中央委員会内部に分派を組織する。
 ――6月6日、マッカーサーによる日本共産党の国会議員を含む全中央委員24人の公職追放指令がだされる。これに対して徳田らは正規の会議を開くことなく、中央委員会解体宣言と「臨時中央指導部」(臨中)の組織をはかる。
 ――徳田らが亡命先で組織した「北京機関」によって武装闘争方針(51年文書)が日本に持ち込まれる。
 ――徳田らに排除された宮本顕治らの統一と団結を回復するための原則的な活動が展開される。55年7月の第6回全国協議会(6全協)が分裂状態から一定の団結を回復し、極左冒険主義などの誤りにもとづく混乱をただす第一歩となった。
 『日本共産党の80年』(中央委員会発行)は第4章のすべてを「50年問題」にあて、2万2千字にわたって詳細に経過と問題点、導き出した痛切な教訓を描きます。
 これによって党が受けた打撃の深刻さ――。総選挙では49年1月、得票298万4千票、35議席あったものが、52年10月には89万6千票に激減、すべての議席を失いました。

第一回大阪府党協議会        

 大阪では――。
 「この分裂が志田重男らによって大阪にももちこまれ、(五〇年)七月末に関西地方委員会が、つづいて大阪府委員会が分裂させられた。分裂と混乱は大衆団体にもひろがり、大衆運動に重大な損害を与えた」(日本共産党の60年・大阪府版)
 統一と団結回復の第一歩となったのは56年1月28日の第1回大阪府党協議会でした。
 「党規約を無視し、組織原則を破った」「党と大衆の利益の立場からではなく…自己の立場から党内民主主義を主張する派閥主義となってあらわれた」「あやまった極左冒険主義の戦術による被害が農村において深刻」「党の不統一と混乱は…労働戦線の政治的、組織的分裂とレッド・パージを内部からゆるし、経営から党勢力をほとんど失った」「党の統一はヒトミの如く守らなくてはならないことを身をもって知らされた」――
 『第1回府党協議会決議集(党内資料)』からは、痛苦の歴史から前途をつかみだす「生みの苦しみ」がひしひしと伝わります。

歴史的教訓をつかんで        

 「50年問題」について、日本共産党は第7回党大会において総括をすすめ、いかなる外国勢力の干渉も許さない自主独立の立場と、いかなる時にも党の統一と団結を守り、規約を厳守し、民主集中制と集団指導の原則を貫く立場を確立。「51年文書」を正式に廃止しました。
 不破哲三『日本共産党史を語る』は、今日明らかになったスターリンやソ連・中国の干渉と内通の歴史から「50年問題」を深く掘り下げるとともに、当時、こうした背景が明らかになってはいないもとでも、自主独立の立場を確立した先人たちの苦闘と開拓への努力をつぶさに描きます。(次回は「朝鮮戦争のなかで」です)


「50年問題」を総括し団結回復の第一歩となった第1回大阪府党協議会の決議集