時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第59話 大阪革新懇結成

大阪がさきがけに 

 1980年4月5日、大阪市都島区のリバーサイドホテルで、「知事選一周年・八〇年代を創造するシンポジウム」が開かれました。よびかけたのは小野十三郎(詩人)、北尻得五郎(元日弁連会長)、儀我壮一郎(大阪市立大学教授)、指川謙三(大阪中小企業同友会代表)、猿橋真(大阪統一労組懇代表)、柴田悦子(新日本婦人の会府本部会長)、帖佐義行(前大阪地評議長)、中村安治郎(前府医師会長)、野間秀泉(本滝寺管長)、東谷敏雄(大教組委員長)の10氏。パネラーは黒田了一前知事、亀田得治前社会党府本部委員長、定免政雄共産党府委員長、さらに太田薫(元総評議長)、塩田庄兵衛(立命館大学教授)、清水慎三(日本福祉大学教授)が務めました。
 熱っぽい討論が続き、「平和と民主主義、進歩と革新の八〇年代をつくりだす」との申し合わせを満場の拍手で確認しました。
 シンポの成果のうえに5月14日、「進歩と革新をめざす大阪懇話会」(大阪革新懇)が発足します。
 「この会は、平和、民主主義、生活向上をめざして、政治の革新と統一を実現するために、自由に話し合い、討論し、必要な協力・共同をすすめることを目的とします」
 代表に黒田了一前知事、事務局長に角橋徹也府職労委員長が就任します。それは知事選できずいた「府民型統一戦線」を母体にしたものであり、日本共産党第15回党大会が提唱した「革新統一懇談会」の先駆けでした。
 翌81年2月15日、大阪革新懇は各県の革新懇・準備会によびかけて「政治革新・統一戦線を語る全国交流会」を主催します。全47都道府県から255人がつどい、5月26日、全国革新懇結成へとすすみます。

亀田得治さん   

「知事選一周年・八〇年代を創造するシンポジウム」。発言しているのは亀田得治氏=1980年4月5日、大阪市都島区内

 革新懇結成へ、黒田前知事とともに大きな役割を果たしたのは亀田得治でした。「全国交流会」で大阪の代表として発言にたった亀田は、大阪革新懇の出発点が79年知事選と「社公合意」だったとのべ、社会党に身をおいていた帖佐義行とともに、反共主義こそ統一と団結の障害であり、その克服を力説しました。亀田が社会党離党の意思を固めたのは「社公合意」による社会党の変節でした。『拝啓 土井たか子殿』で、その胸中を語ります。
 「一九八〇年十一月末、考えぬいたあげく、私は離党に踏み切った。入党いらい三十五年の社会党員としての歩みであった。その間、参院議員をはじめ、数えきれないたたかいがあった。
 その党から、私は離れる――やはり、感無量であった」
 そして、「これまでの政治的信条を貫くために離党したのであるからには、当然、明日から革新統一戦線のための活動を、今までにもまして強めねばならぬ。それはまったく自然の流れである」。この「宣言」どおり、革新懇結成・強化のために、大阪中、全国各地をかけめぐります。

全行政区で    

 日本共産党大阪府委員会は、革新懇運動について、「上からの結集」ではなく、「下から」――草の根からの結集を重視します。地域革新懇は83年10月、城東区で産声を上げたのを皮切りに、88年8月には大阪のすべての自治体・行政区で結成されます。そして、府党会議などで、これらの革新懇が「行動する」組織として発展するよう党として責任を果たすことを強くよびかけます。(次回は「岸府政とのたたかい」です)

(大阪民主新報、2021年9月19日号より)

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