時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第21話 産別会議、民主運動の前進

戦後日本の労働運動

1946朝日新聞 『大阪社会労働運動史』は第3巻から戦後編になります。その監修者序文にはこうあります。
 「戦後日本の労働運動が大阪からはじまったといってもそれほど奇異ではない」「敗戦後、大阪総同盟のみせた圧倒的な力…総同盟に対抗する左派系運動が示した活力と、これらが全国に与えた強烈な影響をも含め、大阪は戦後社会労働運動のなかで特異な光彩を放っている」
 大阪における労組の結成は、1945年末まではわずか8組合、組合員数2・5万人でした。労組法施行後、46年末に1144組合、45・7万人へと急速に増えていきます。
 46年5月1日、戦後第1回メーデーは雨天のなか、中之島・難波・梅田・四天王寺・十三橋・大阪城前の6カ所から約10万人の労働者が「主食増配」「資本家大地主の隠匿米を吐出せ」とシュプレヒコールをしながら、中之島公園へ求心デモをおこないました。東宝映画従業員組合では行進が終わって梅田映画劇場横に集合、おりから出演中の轟夕起子や月丘夢路、並木路子らのスターが舞台姿のままで参加し、ディック・ミネの音頭でメーデー歌を合唱したといいます(『大阪府の100年』)。

産別会議関西地方会議

 再建された大阪の党組織は、第4回党会議で決定された方針にもとづいて労働組合運動の産業別統一をめざして組合内民主化の徹底、政党支持の自由の原則を擁護して奮闘しました。しかし、戦前、天皇制軍部に追従して労働組合を解体し戦争に手をかした西尾末広らは、戦前からの反共主義、労資協調主義をひきつぎます。社会党支持を前提にした日本労働組合総同盟を発足させ、大阪では46年2月に総同盟大阪府連合会を結成し、労働戦線の統一を拒否、妨害しました。このなかで8月、全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成され、9月には産別会議関西地方会議が17組合、10万3千人で結成されます。関西地方会議の初代議長には三谷秀治が選ばれました。
 産別会議は「われわれは労働者と労働組合の基本的権利をまもるためにたたかう」「われわれは労働戦線の完全な統一のためにたたかう」など10項目の綱領とともに、「政党支持の自由」を基本的な組織原則とし、階級的民主的労働運動の中心を担いました。

各分野の運動の展開

 各分野の運動も堰を切ったように展開されます。
 大阪農民組合再建発起人会は杉山元治郎、加藤充らによって45年10月17日に持たれました。46年2月の部落解放全国委員会の結成をうけて、47年2月に部落解放全国委員会大阪府連合会が結成されました。中小業者の利益を守るため、柳田春夫、神崎敏雄らの奮闘で49年には全大阪生活擁護同盟(のちの全大阪商工団体連合会)が発足しました。関西医療民主化同盟の結成は46年1月12日のことでした。
 青年学生分野では、46年2月に結成された青年共産同盟と社会党青年部、日交同盟、国鉄、海員各労組の青年部、大阪勤労婦人連盟などが「国鉄青年デー」を開催。47年2月19日には「民主青年婦人協議会」第1回総会がもたれました。
 戦後直後から、在日朝鮮人のコミュニストが日本共産党とともに、さまざまな場面でのたたかいを担ったことも明記しておかなければなりません。(次回は「日本共産党の憲法草案」です)


 訂正 前号で紹介した機関紙「建設者」は、府委員会ではなく大阪地方委員会の機関紙でした。