時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第2話 日本共産党の創立

 7月15日、東京・渋谷の伊達町の会合で日本共産党が創立された直後、大阪でも党組織が誕生します。創立メンバーには総同盟大阪電気労働組合の鍋山貞親、中村義明、官業総同盟の花岡潔、弁護士の小岩井浄(写真)らがいます。党創立に参加し、最初の執行部の一員となった荒畑寒村が指導しました。
 結成の場所は、天下茶屋の棟割長屋にあった小岩井の家と伝えられます。手にしたペン書きの原稿にはカムフラージュのため「英国共産党綱領」と書いてありました。

「梁山泊」

 小岩井は1897年長野県松本市出身。東京帝大入学後、「新人会」の活動を通じて社会変革の熱意に燃えていました。卒業後、弁護士になった彼が選んだ地が大工業都市、労働運動が大きな勢いで進みつつあった大阪でした。
 「私は積極的に手を伸べてプロレタリアの中へ入ってゆくためにこそ大阪をえらび、その地に来た」
 その家は、「玄関、奥、二階併せて三間、二階への梯子段はキウキウ悲鳴をあげるし、二階を歩けばズンズン音がする」。家具調度は夫人のもってきた小さいタンスだけ、見かねた大家が白木でこしらえた本立てをプレゼントするほどでしたが、「このささやかな家を根城に、私達夫婦は、丁度ロシアでヴ・ナロオド(人民の中へ)を叫んだインテリゲンチャ青年がもつたであらうと、同じ熱情に燃えてゐた」(小岩井浄『冬を凌ぐ』)
 この家が、労働組合の活動家が集い、『国家と革命』(レーニン)などを議論し、天下国家を論ずる「梁山泊」になっていました。「梁山泊」には、大阪のみならず、戦前の党中央の指導者・渡辺政之助、徳田球一、共産青年同盟初代委員長・川合義虎らも行き来していました。

対露非干渉運動 

 日本共産党は、誕生のそのときから、民主主義と平和の旗をかかげ、奮闘しました。1922年9月、「対露(ロシア)非干渉関西同盟会」による天王寺公会堂での演説会で、小岩井は1917年の「シベリア出兵」以来の日本軍の暴状について口を切ると、すぐに「中止命令」を受けましたが、採択した決議文には「日本の無産階級は労農露国の承認を希望する」「露国に駐屯する日本軍隊の即時無条件撤退を要求する」とありました。
 当時の天皇制政府のもと、自由と民主主義の基本的な権利が存在しないもとで、日本共産党は「非合法」の政党として出発することを余儀なくされました。同じころに共産党が生まれたアメリカ、イギリス、イタリア、カナダ、ドイツ、フランスなどのなかでも、生まれた時から非合法で弾圧されつづけた国は日本だけです。

綱領草案

 1923年2月、千葉県市川市で開かれた日本共産党第2回大会には大阪の党組織を代表して鍋山が(岡山県の農民闘争の指導の中で検挙・投獄されていた小岩井の代理として)、3月の東京・石神井での臨時大会には小岩井が参加しました。ここでは「綱領草案」が議論されました。「君主制の廃止、貴族院の廃止、十八歳以上のすべての男女にたいする普通選挙権の実現」、外国にたいするあらゆる「干渉企図の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の完全撤退」などをズバリとよびかけた綱領草案は、論議のさなか、6月に日本共産党にたいする最初の大規模な弾圧を受け、正式決定にはなりませんでした。しかし、その中身は侵略戦争と暗黒政治のもと、日本の行く手を確固として示すものとなり、戦後の日本で、その多くが実現することとなりました。(次回は「電車ストライキ」です)

 前回記事で自由民権運動「百年碑」は黒田了一の揮毫としましたが、正しくは「撰文」でした。ホームページ上ではすでに修正しています。

(大阪民主新報、2020年7月19日号より)