時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第64話 86年衆参同時選挙の勝利

24万人の「赤旗まつり」       

初めて大阪で開かれ、3日間でのべ24万人が参加した「赤旗まつり」=85年5月、堺市の大泉緑地

 1985年5月3~5日。堺市・大泉緑地は人、人、人であふれました。3日間でのべ24万人。東京から舞台を移し、初めて大阪で開かれた「赤旗まつり」です。翌86年の参院選大阪選挙区で、「岩を砕いても」と決意をみなぎらすくつぬぎタケ子は東京選挙区の上田耕一郎と各テントを回り、大阪の衆院7選挙区候補も必勝への熱気であふれました。
 86年7月7日、中曽根首相の思惑で、「寝たふり解散」が強行され、2度目の衆参同時選挙がおこなわれます。
 大阪の日本共産党はこの選挙で、くつぬぎタケ子が83年選挙の雪辱を果たし、参議院議員に返り咲きます。そして衆院選挙では大阪3区・6区で日本共産党議席を回復し、4議席から6議席に前進しました。
 のちに定免政雄府委員長は、「みなさん、大阪の共産党と後援会はダブル選挙では、まさに地獄の底からはい上がってきた軍団であります」と万感の思いをこめました。

「比例を軸に」   

 83年選挙の敗北から86年の勝利へ、府委員会を先頭にした大阪府党の努力はすさまじいものでした。
――「比例代表選挙を軸」にした活動に徹し、「有権者比20%以上・120万」の得票目標をかかげ、『日本共産党はどんな党か』パンフを作成し、府委員長が責任者になり、「120万部普及作戦」
――「党員1人が日刊紙1部、日曜版2部の拡大、30人以上のパンフ普及,30人以上の支持拡大」を提起します。
――くつぬぎ勝利へ、「くつぬぎパンフ」を得票目標以上作成し、2月から普及にとりくみます。4月からは毎週全戸配布作戦にとりくみます。1面で日本共産党を、2面でくつぬぎをおしだすものでした。
――「大阪民主新報」には、「いま燃える日本共産党」連載とともに、「くつぬぎタケ子のさわやか訪問」「大型ドキュメント たのもしく大阪・日本・世界 時代を拓く」「くつぬぎタケ子の東奔西走」の連載を開始。衆院7選挙区ごとに編集した7つの「地域版」を掲載していきます。
――選挙態勢は83年の轍を踏まず、「比例を軸」に、衆参同時選挙になっても参院選態勢を絶対崩さず、地区・行政区も「衆参選挙闘争本部」にし、比例代表選挙責任者を配置、府委員長を先頭に街頭演説会弁士を担い、「共産党」タスキを1万本作製し、支部に届けます。くつぬぎ選挙を含め、参院選が衆院選を引っ張る役割を果たしました。
――選挙本番では、当落を競り合う相手に目を向けるのでなく、「自共対決」をつらぬきます。参院選では自民党が大阪選挙区議席を失いました。

衆院大阪6区で  

 同時選挙で大阪3区から村上弘が返り咲き、大阪6区では神崎敏雄のあとを受け、大阪教育大学助教授から転身した石井郁子が初当選します。黒田革新府政誕生の年に、研究者としての職を得て大阪へ。その職を離れることに大きな葛藤があったといいます。しかし、中曽根内閣の「戦後政治の総決算」、憲法、教育基本法改悪の危険を目の前に、「社会を変える」という党員としての初心にたって立候補を決意します。
 6区選対本部長代理だった小林喬は「平野、天王寺に教育大がある6区で、よくぞ候補者になってくれたと喜ぶとともに、北海道から研究者の職を得て大阪に来た人を絶対に落とせない。責任重大だった」と語ります。(次回は「関空建設」です)

(大阪民主新報、2021年10月24日号より)

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