時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第19話 占領下の大阪

アメリカ軍の進駐 

 1945年9月27日午前7時半、アメリカ軍の第6軍、第1軍団司令部先遣隊が大阪市東区の住友ビルに乗り込み、5階に司令部を置きます。新大阪ホテルにも星条旗が掲げられました。
 46年春からは第25師団が大阪に移動します。当時、御堂筋は「ライトニング・ブールバード」(いなずま通り)と呼ばれていました。それは、この第25師団のマーク「トロピック・ライトニング」(熱帯の稲妻)に由来するものでした(三輪泰史『占領下の大阪』)。
 米軍進駐当時、大阪府からだされた回覧板には、「婦女子は日本婦人としての自覚を以て飽く迄貞淑且つ隙を見せぬことが必要である/淫らな服装をせぬこと又胸を現したり素足を見せる様なことは慎むこと」という一項がありました。それは中国その他の占領地で略奪・強姦・殺戮をくりひろげた日本軍の光景が脳裏をかすめたものでした。
 46年9月29日付の新聞に掲載された大阪府民への通告には、進駐軍の自動車がサイレンを吹鳴らす場合、あるいは進駐軍の士官が停止を命じた時は、諸車、通行者は必ず通路の片側に停止すること。「以上の命令に従わない時は、射撃されることがあるからよく注意すること」とありました(同前)。

飢餓と悪性インフレ

 戦後直後、大阪府民を襲ったのは飢餓と悪性インフレ・高物価でした。
 大阪の消費者物価は46年から47年に2・3倍、48年以4・0倍と上昇します。
 浮浪者があふれ、大阪市内に餓死者が続出します。大阪府警察局調べによると、45年8月60名、9月67名、10月69名。11月は15日までに大阪駅付近だけで42人の餓死者がでました(「朝日」45年11月23日付)。
 関西財界の一つ、関西経済連合会(関経連)が設立されたのは46年10月1日でした。関圭三による経過報告にも、こんな一節があります。
 「敗戦後の日本が窮貧の奈落に坤吟するであらうことは予て覚悟をしてゐたところでありますが、現実は予想よりも遥かに厳しいものであつて、特に産業経済面に於きまする打撃と混乱は人心の弛緩、経済秩序の破壊、かてて加へて戦災のために打ちひしがれた設備や、施設の損失、之等の悪条件に更に拍車を加ふる資材難、資金難、前途の見透難等幾多の障碍が横たはつてゐるのでありまして、之を如何にして打開し、正しき復興の軌道に乗せ、産業の再建に出発せしむるかは尋常一様の努力では成就出来難い」

「民主戦線結成」の提唱

 こうした困難のなか、公然と活動を開始した日本共産党は新たな党建設と統一戦線づくりにのりだします。
 46年1月12日、野坂参三が中国から帰国します。これを機に、共産党と社会党左派や革新派の知識人などの間に民主戦線結成の気運が高まります。2月15日には野坂が来阪し、17日に中之島剣先公園に約5000人を集めて歓迎大会が開かれます。翌18日、大阪市従・大阪交通労組・関西電気労組・日本発送電従業員組合・大阪教育労組・松下産業労組の6組合の提唱で「民主戦線結成労働組合懇談会」が開かれ、53組合が参加。「1、われらは民主戦線の確立を期す2、われらは労働組合戦線の統一を期す」の2項目の申し合わせを満場一致決定しました。(次回は「大阪地方党会議」です

1949年前半ごろの占領軍施設

丸数字は米軍が接収した建物・施設。新大阪ホテル②は上級将校宿舎、朝日ビル③は民間検閲班、住友ビル⑤は軍教会、日本生命ビル⑨は第25師団司令部などとなりました。⑰の飛行場はいまの靱公園です。(三輪泰史『占領下の大阪』より加工ました)


(大阪民主新報、2020年11月22日号より)

 

コンテンツ