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「戦争繰り返してはならない」 寺の戦跡残し平和語る 堺・浄得寺の前住職 松井一覺さん

2013年08月11日

「若い人に伝えたい」

 「相手が寺であろうが一般市民であろうが関係なしに、壊すし殺す。これが戦争です。絶対に繰り返してはいけません」というのは、松井一覺さん(81)=堺市堺区在住。行基ゆかりの海船御堂・浄得寺(同区錦之町東2丁 真宗大谷派)の前住職です。同寺には堺空襲(注)で焼けた柱などをそのままにしてあり、堺の戦争展などで紹介したところ、戦災跡の見学者が増加。その人たちに、松井さんは当時の記憶を伝えています。

 740年ごろ建立され、1598年に現在地に移った浄得寺。被害にあったのは1945年7月10日未明の空襲でした。松井さんは当時、13歳。戦争で男手が取られ、寺の仕事も手伝っていました。

大雨の音だと思ったものは

 「大雨が降っているような音が聞こえて目が覚めました。焼夷弾が落ちてくる音でした。袈裟などが燃えないようにと井戸に吊るしてから外に出ると、周囲は煙だらけ。目の前に焼夷弾が落ちてくる状況です。『もうあかん』と思いました」
 住民は大和川へ逃げていましたが、松井さんはその途中の小学校へ。この小学校は以前の空襲で被害を受け、コンクリート製の門だけ残っており、そこに身をひそめたと言います。
 空襲が終わって寺に戻ると、隣の寺から火が本堂に燃え移り、近所の人がバケツリレーで水をかけている最中でした。一時はどうなるかと思いましたが、住民の奮闘と風向きの変化が加わって、本堂は柱や屋根の一部が燃えただけでした。金属供出で鐘のなかった鐘つき堂と蔵は全焼でした。
 この時の空襲で、寺のある錦小学校区は55%が焼失しました。
 松井さんは米軍機からの機銃掃射も受けたこともありました。友達といた時ですが、「操縦者と目が合いましたが、米兵は笑っていました」と言います。
 「私の父は、日本は戦争には負けると言っていました。周りの大人はそんなことを言わないのに、けったいな人やなあと。正直言うと、非国民だと思っていました」

戦争の記録だから残したい

 戦後、本堂の柱などは「値段が高いこともあって、父はどうしても修理しなければならないところだけ、修理しました。20年ほど前から10年以上かけて寺を改修した時も、戦災跡は残しました。戦争から68年たち、あれだけの空襲を受けたのに、その跡がない。戦争の記録だから残した方がよいだろうと思ったからです」

戦争に生かされるのは若者

 松井さんは言います。
 「『国防軍』創設やら靖国参拝やら、きなくさい動きが相次いでいます。『選挙で勝った』と、やりたい放題するんじゃないかと本当に心配です。9条を変えることを言わずに96条をまず変えるというのは、姑息なやり方ですね。『国防軍』で戦争に行かされるのは私たちじゃない。いまの若い世代です。そのことを若い人たちに伝えたいですね」

堺空襲

 砲兵工廠を持つ軍都・大阪に隣接し、軍需工業や労働者のベッドタウンという密接な関係を持っていた堺は、1945年3月13日を皮切りに、6月15日、同26日、7月10日、8月10日の5回にわたる空襲を受けました。
 罹災面積は約22万6千坪で、現在の堺市域の14%に相当。旧市域の62%に相当します。
 死傷者は約3千人、全焼(全壊)・半焼(半壊)家屋は約1万9千戸、罹災者は7万人を超えました。被害のほとんどが7月10日の第4次のものです。

投稿者 jcposaka : 2013年08月11日

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