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府民の声まっすぐ国会へ コータロー物語(上)一人はみんなのために.みんなは一人のために

2013年04月07日

 7月の参院選まで3カ月余となりました。大阪選挙区(定数4)では、これまで自民・公明・民主の各党に加え、日本維新の会も議席を狙っています。日本共産党のたつみコータロー候補(府くらし・雇用対策委員長)は、「府民の声をまっすぐ届ける議席を何としても」と大阪を駆け巡っています。コータローさんの生い立ちや歩みを2回に分けて紹介します。

わが家は「生活相談所」
住民奉仕の姿を見て育って

 コータローさんは1976年8月21日、4人兄弟の末っ子として生まれました。父親は日本共産党大阪市会議員(西淀川区選出)を7期28年務めた辰巳正夫さん。「孝太郎」の「孝」は、江戸時代初期の儒学者(陽明学派)、中江藤樹(1608〜1648年)の著書『孝経啓蒙』にちなんで父親の正夫さんが命名しました。
 地元での正夫さんの議員活動の拠点は、相談事務所を兼ねた自宅マンション。トイレの中も含めて電話が5台あり、生活相談の電話がひっきりなしに掛かり、訪問者も後を絶ちません。
 住民のために献身する父親の姿を見て、「政治家というより、どんな相談にも乗る何でも屋≠セと思っていました」と、子ども時代を振り返ります。
 西淀川区の佃小学校時代は水泳と野球をしていました。佃中学校では野球部がなかったため、ラグビー部に所属してキャプテンに。府立北野高校に進学してからは、さらにラグビーに情熱を傾けるようになります。

紳士のスポーツに熱中
府立北野高校でラグビーに

 当時、府内で強豪だった北野高校ラグビー部。1969年生まれの橋下徹大阪市長は同部のOBで、コータローさんも橋下氏の時期と同じ顧問教師の下で練習を積みました。
 1年生でベンチ入り、2年でレギュラー、3年生では攻守の要である「スタンドオフ」という花形ポジション。大阪大会のベスト8に進出したこともあります。
 コータローさんは「ラグビーは英国の発祥で、『紳士のスポーツ』とされています」と強調します。大雨の中でも泥まみれになって試合をするのは、「『この日にたたかう』という約束があるから。身体を激しくぶつけ合っても、試合が終わればノーサイド。トライするために15人の選手が力を結集する『一人はみんなのために、みんなは一人のために』の精神が息づいている。前半・後半で計約1時間、全力で走り回るラグビーで鍛えられた体が、候補者活動の中でも生きています」
 ラグビーに打ち込むだけでなく、3年生の時は生徒自治会長に。ハンセン病の専門医で現国立療養所邑久光明園(岡山県)園長の畑野研太郎氏が、北野高校の卒業生であることから、文化祭では畑野氏が取り組んでいたバングラデシュのハンセン病患者のワクチン接種を支援するチャリティーコンサートを開催。3年生も終りに近づいた95年1月17日に起きた阪神淡路大震災では、自治会で救援カンパも呼び掛けました。

米国の大学へ単身渡米
世界各国の人々と交流して

 高校卒業後の進路を考えたとき、「日本の大学に行ったら遊んでしまうのではないか」と思い、留学を決意。単身渡米して最初の2年間は南部・テネシー州の大学(写真関係)、残り2年間は北東部・マサチューセッツ州の州都・ボストンのエマーソン大学映画学科へ。子どものころから母親がよく映画館に連れていってくれたというコータローさんは、「映画好きになって、映像制作の勉強をしたいと思い、マスコミや映画、テレビ関係の学科があったエマーソン大学に編入したんです」
 英会話ができるようになったのは米国に渡ってから。「最初はみんなが何を言っているのかも分かりませんでした。そのうち相手の話が聞き取れ、自分もしゃべれるようになりました」
 2つの大学には、世界各国の学生が集まっていました。日々の生活の中で「日本はどういう国か」と語ることが迫られます。
 「原爆投下を正当化するアメリカ人に『そうじゃないんだ』と説明しました。韓国の学生からは『戦争のときに日本がやったことをどう考えているのか』と問われます。実家から本を送ってもらい、歴史も勉強しました。留学生活を通して、日本を客観的に見ることができるようになった思います」とコータローさんは語ります。(続く)

世のために働く息子誇りに
母・春江さんの話

 男ばかり4人兄弟の末っ子です。1番上とは10歳違いで、3番目とも6歳離れており、小さなころは兄たちが奪い合ってかわいがりました。
 明るい子で、学校の参観日では、コータローが発言するとクラス中が大笑いになりました。先生から「辰巳くんがいるからクラスがまとまる。いじめがなくなった」と言われました。問題児とされる子たちなど、分け隔てなく仲良くしていたようです。
 一方で家ではテレビを見る時間が守れず、取り上げられると怒って部屋に「ろう城」したことも。中から机でバリケードをつくっていたようです。
 いまも皆さまに育てていただいています。両親とも多忙で振り回してきましたが、日本共産党に入り、本当に世のために働く息子たちを誇りに思います。
(2013年4月7日付「大阪民主新報」より)

投稿者 jcposaka : 2013年04月07日

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