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東日本大震災 共産党府委がボランティア派遣 岩手県陸前高田へ 長期支援へ第一歩 復興の先頭に立つ現地党議員の姿も

2011年05月22日

被災直後に自治体機能失う

 日本共産党大阪府委員会は、東日本大震災で津波による被害を受けた岩手県陸前高田市へボランティア団22人を19日から23日まで派遣しました。被災者救援・復興とともに、党機関の建て直しも含め、長期支援を念頭においた派遣第1陣です。震災から2カ月半余が経過したいまも、被災地では劣悪な環境での生活が続いています。状況の聞き取りや被災者訪問、流出物の整理、がれきの撤去など、作業に当たったボランティアに同行しました。(長田淳之介記者・3面に関連記事)

いまだ700人以上不明

 震災から2カ月半余が経過しているにもかかわらず、岩手県内の避難所の3割で温かい食事が食べられず、栄養不足が心配されています。
 陸前高田市は総人口2万4246人(23年2月28日現在)。津波で市の中心部が市庁舎もろとも破壊され、8068世帯(同1月31日現在)中、3845世帯が被災し、約1千人が死亡。いまも700人近くの行方が分からなくなっています。
 市内では、リュックを担いだ女性と中学生ぐらいの男の子が、がれきの中を何かを探すように歩いていました。
 発見された遺体の身元確認のために、DNA情報の提供を呼び掛ける放送が、市内に流されています。
 自治体職員の3分の1も死亡、または行方不明になっています。教育委員会と防災関連の職員のほとんどが死亡し、被災直後に自治体の機能が失われました。
 戸羽太市長は妻を亡くしました。地震発生から50日目に、及川一郎共産党市議が、がれきの中から遺体で発見されています。
 自宅が流された大坪涼子同党市議は、避難所の責任者を務めます。入浴は4日に1度。仮設住宅への入居が始まりましたが、「自分が一番最後に避難所を出る」と宣言し、市民の避難生活改善に奮闘しています。
 藤倉泰治同党市議は与党としての責任を果たすべく、自治体機能の再構築に奮闘。党組織の被災状況把握と復旧にも努力しています。

「1人ではどうにもできなかった」

 岩手県では内陸部の4地区委員会が沿岸部の4地区委員会をそれぞれ支援しています。大阪の派遣団は気仙地区委員会を支援する両磐地区委員会のボランティアセンターで寝泊まりし、毎朝1時間半かけて陸前高田市の共同センターへ通いました。
 活動内容は、前日または当日に、現地で決められました。

人出が足りない

 共同センターでは全国から集まった支援物資を住民へ配布する「青空市」を開いています。派遣団は、誘導や物資の陳列などを行いました。
 22日は雨の中の「青空市」になりました。雨でも多くの在宅被災者が訪れました。雨よけにビニールシートで屋根を作ろうとした派遣団メンバーを、責任者の藤倉了介さん(30)が「片付ける人手がないから」と制止。プレハブ内の物資も整理の手がつかないまま、その日の市は終わりました。
 派遣団が23日に作業したのは大和孝一さん(75)の自宅前に広がる、約50eの田んぼです。
 自宅は床上40abの浸水。軽自動車が1階部分へ突っ込み、トラックは家の反対側まで流されました。田んぼや周辺には家屋の屋根部分や船が流れ着き、木材や生活用品などさまざまな物が、がれきと化して埋まっていました。
 手作業でがれきを取り除かなければ、重機が田んぼに入ったときに鉄くずやガラスと土が混ざってしまい、水田に戻すことができなくなります。メンバーらは手分けして、がれきの撤去に当たりました。
 「地震があって、20分ほどで津波が来た。逃げようかどうしようか迷って…」。地震当日の状況を思い出し、言葉を詰まらせる大和さん。教員をしている息子と、学校へ行っていた孫2人を含む一家6人は幸い無事でした。
 田んぼの3分の1程が片付いたところで、「ひとりじゃどうにもならなかった。来年には米が作れるかもしれない」と、大和さんは笑顔を見せました。

日本共産党陸前高田市委員会
流出物の整理も手つかず

 冨永千廣島本町議は19日、山積みになった同党陸前高田市委員会事務所の流出物を整理しました。
 「しんぶん赤旗」の集金途中で、領収書や新聞代の入った封筒が、泥まみれで出てきました。読者の名簿や議員団の活動記録、議会内容を打ち合わせた資料、活動ニュースをとじたファイルなどがありました。
 ファイルは一つ一つが海水と砂の混じった状態で、1ページめくるたびに濡れた砂が付いています。
 泥を落としながら作業していくうちに、机上や床に大量の砂が積もっていきました。
 遺体で見つかった同党及川一郎市議の名刺が、泥にまみれて出てきました。
 冨永町議は、「津波から2カ月たっても大事な資料を山積みにしておかなければならないほど、現地の党組織は無我夢中で余裕なくやってこられたのだと思う。おそらく私たち外部の人間が整理しなければ、現地の人が思い出の残る資料を捨てる判断は、とても時間がかかってしまうのだろう」と、言葉を詰まらせ語りました。

山口党府委員長 被災地で懇談

 山口勝利府委員長、勝田保広府副委員長は一行に先駆けて18日、同党岩手県委員会を訪問。菅原則勝岩手県委員長と斉藤信県議から被害状況を聞き=写真=、岩手県、気仙地区両委員会に、府委員会からの見舞金を手渡しました。
 翌19日は、床上1b浸水した気仙地区委員会事務所で党議員団と懇談し、革新市政を支える「市民の声」の菅野隆介会長にあいさつ。菅原県委員長の案内で陸前高田市中心部を視察。「市民の声」と党の共同センターのテント内で、藤倉泰治、大坪涼子両市議と面談しました。

共産党府委ボランティア
妹探して遺体安置所へ
生きる意味分からない
陸前高田 在宅被災者を激励・支援

 東日本大震災で被災した陸前高田市への震災ボランティアで、日本共産党府委員会の派遣団は、同党と革新市政を支える「市民の声」の共同センターの活動を知らせるため、支援物資を手に在宅被災者を訪問しました。
 21日に訪問した女性は、妹(62)と娘を捜しに毎日、遺体安置所へ通っていると話しました。息子(33)夫婦は遺体で発見されました。
 妹夫婦は子どもと3人暮らし。経営する自宅兼店舗の美容室が町の中心部にありました。「(津波に流されて)いまは何もない。はさみの一つでも落ちてないかと探しても、何もないんです」

体溶けても絶対分かる

 娘は公立体育館に勤めていました。津波の第1避難所に指定されていた体育館で、最後まで住民を避難誘導していたと思われます。
 「毎日探しているのですが、がれきが山になっていますから…。でも、妹や娘の体が溶けていても、絶対分かると思うんです」
 女性は以前、町の中心部で店を経営していました。夫を早くに亡くして高台へ移りましたが、町には知り合いが多くいました。この人たちも、いまはどうなっているか分かりません。
 「だから町に出たくない。誰にも話すまいと思っていました。ごめんなさい。話しちゃだめだと思っているのに」。大粒の涙がこぼれました。
 女性宅を訪問したのは大阪市西淀川区から参加した石井美鈴さん(47)たち。「早く見つかるといいですね。お体に気をつけて。大阪に帰っても同じ気持ちで頑張ります」と声を掛けました。

行方不明の読者を発見

 「生きている意味が分からない」。枚方市から参加した松岡ちひろさん(44)は訪問した先で、高齢女性にそう言われました。
 女性は市街地で呉服屋を営んでいました。店長はじめ従業員3人を店ごと津波に流され、失いました。離れて暮らす親族のもとへ身を寄せましたが、亡くなった従業員のことを思ってこの市へ戻り、借家で暮らしていました。
 松岡さんが、この女性のことを伝えると、党が行方を捜していた「しんぶん赤旗」の読者であることが分かりました。

励みは全国からの強力な応援
前よりいい街に復興させたい
中里前町長

 派遣団が活動を終えた最終日に、中里長門前市長があいさつしました。
 日本共産党の陸前高田市議だった中里氏は、8年前の市長選で当選。4年前に再選されました。
 ことし2月の市長選で、中里氏と共に活動してきた戸羽副市長が、8年間の市政の継続・発展を掲げて当選。その1カ月後に大震災が起きました。
 中里氏は、ボランティア活動への感謝を述べた上で、津波で市役所そのものがなくなり、職員も非正規を含め100人が亡くなるか行方不明になっていること、多くの市民が家を流され、家族が犠牲になり、避難所で生活し、頑張っていることなどを報告しました。
 2010年度決算も資料が全部流され、教育委員会は幹部全員が亡くなるなど、6月議会はとても開ける状況でないと話した上で、「地域住民も職員も、励みは全国から強力な応援をいただいていること。その期待に応え、困難が多くあっても、必ず歩みを初めて、前よりもいい街に復興させていかなければならない。皆さまにご支援いただいた成果を必ずまちづくりに生かしていく。現市長とも連携を取りながらやっていきたい」と述べました。

運動はなくならない

 中里氏は、「選挙で公約したまちづくりも、震災で狂ってしまいましたが、市民と共にこの8年間、つくってきたまちづくりの運動は決してなくなることはない。これからのまちづくりにもしっかりと生かされていくと思っている」と述べました。

参加ボランティアの感想
支援活動の継続と拡大必要
命を守る政治を実現したい

 玉井美樹子吹田市議
 被災地の景色を初日に見たときは衝撃を受けたが、景色は日が経つにつれ慣れていく。しかし住民の生活も含めてもとに戻るまで、支援活動を継続しなければならない。
 
 弘豊摂津市議
 多くの方が物心の両面で支援したいと思ってる。そんな人達が現地でどういう活動ができるか、知りたくて参加した。集落の中でのつながりが強く、みんなが支え合っている。高齢の女性が「離れて暮らす娘に呼ばれているが、まわりの人と一緒にここで暮らすんだ」と言っていた。そういうコミュニティーを応援していくことが必要だ。
 
 小谷美鈴前府議
 大阪市大正区は地震が起きると津波で大きな被害が予想される地域。少しでも被災者の皆さまのお力になりたいと思い、大津波がどんな状況だったのか、自分の目で確かめたいと思い参加した。1軒1軒、在宅被災者を訪問してお話を聞くと、それぞれが悲しい記憶を持っていて、街全体が悲しみの中にあると実感した。訪問先で「電気やガス、水道などのライフラインはやがて復興できますが、命だけは再生できない」というお話がすごく印象的だった。最大限に命を守る政治を実現したい。
 
 冨永千廣島本町議
 在宅被災者の方に、共同センターの案内をかねて物資をお届けしたが、家も車もご主人の位牌も流されてしまった高齢の女性に物資を渡そうとすると、「大丈夫ですからもっと大変な方へ渡してください」と言われる。どこでもそう言われるが、話していくと大変な状況。大阪に帰り、活動の中で被災状況を大阪の方に知っていただき、支援の輪を広げられるようにしていきたい。

投稿者 jcposaka : 2011年05月22日

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