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「大阪交響楽団」の誕生ですね 他のオケにはできないことを 大阪交響楽団楽団長 敷島鐵雄さん

2010年04月16日

 大阪シンフォニカー交響楽団が創立30周年を機に大阪交響楽団に改称しました。クラシック音楽を愛する主婦が「聴くものも、演奏するものも満足できる音楽を!」をモットーに創立した楽団は、大阪を代表するオーケストラの一つになり、ことしは文化庁芸術祭大賞も受賞。楽団長の敷島鐵雄さんに名称変更や楽団への思いなど聞きました。(聞き手 佐藤圭子編集長)

30年間演奏も倍に

――20年前の10周年の時、楽団代表をされているお母様(敷島博子さん)にインタビューさせていただきました。所属していた合唱団専属のオーケストラをと、自己資金で楽団をつくられたお話、数カ月前にやっとコピー機が入り、夢は楽団員に給料を払うことだとおっしゃっていました。
敷島 あれから楽団員に給料が払えるようになり、年間の演奏回数も当時の倍以上になり、ことしは定期演奏会だけで11回取り組みます。
 コピー機も、どれだけの量をどれだけ正確に刷れる機械を選ぶかという状況になりましたが、節約はしています。理事会で理事の人に配る資料はちゃんとした紙ですが、ぼくらのは楽譜のコピーを失敗した分の裏紙。会議で数字で読み上げていくと、理事長から「何で楽譜見ながら数字言えるんですか?」と言われたこともあります。
 ――楽団にかかわられるようになったのはいつからなんですか?
敷島 母をインタビューしていただいた1年半後の1991年12月です。35歳でした。東京の商社に勤めていたんですが、電話がかかってきて、「大変やから手伝って」と。それまでクラシック音楽の演奏会なんて1回も行ったことがなかった人間が、会社を辞めて大阪へ帰って来たんです。
 母の時には産みの苦しみなどいろんな苦労があったと思いますが、あれから20年は、また違った苦労がありました。資金繰りも前以上に苦労していますね。
 ――国の事業仕分けでも、オーケストラへの助成がかなり削減されましたね。
敷島 無駄を省くのは当然ですが、事業仕分けの初日に何をやってるのかなと思ってふたを開けたら、私たちがやっている活動への支援が無駄やという話がされていてびっくりしました。

目を輝かせ聞き入る子

 学校公演は、この3月までの1年間で25公演でした。四国の愛媛や高知県の山奥にも行き、前の年は北海道にも行きました。
 行く先々で、生の音楽に触れて目を輝かせる子どもたちの姿を見てきました。全校生徒30人、40人という山の中の学校の子どもたちからすると、ひょっとしたら生のオーケストラを聴けるのは一生に1回かも知れない。その中から音楽家になる人も出てくるんです。
 日本にクラシック音楽が入ってきて100年以上になりますが、文化団体が足しげく陳情に行ったりして、苦労してやっと大きなオーケストラから支援してもらえるようになり、私たちも20年、30年と活動してきてオーケストラ連盟にも入り、この5年、10年でやっと国から支援してもらえる団体になったのに。「コンクリートから人へ」と言いながら、それはないやろうと。
 大阪府から出ていた200万円の事業補助もカットされました。国民1人当たりの文化予算は、お隣の韓国は日本の5倍、フランスは10倍。日本は一体何をしてるのかと思います。
 ――本当に文化施策後進国ですね。そんな中でも、個性的な演奏プログラムで注目を集めてこられて、昨年10月、ザ・シンフォニーホールで音楽監督の児玉宏さんがタクトを振られた定期演奏会が、第64回文化庁芸術祭大賞を受賞されました。
敷島 あの公演では、ブルックナーの第6交響曲
を演奏したんですが、大阪ではブルックナーといえば大フィルの朝比奈隆さんでした。ファーストバイオリン18人や16人の大フィルに対して、われわれは最高で14人。大きな形でなくても、これだけの賞をとれる演奏ができたと評価していただいたということで、大きな励みになっています。

演奏曲へのこだわりも

 うちで演奏する曲は、批評家の方も「今回初めて生で聴いた」と言われるものが多いんですが、府外のある楽団の音楽主幹の方から、「よく思い切ってここまでできるね。うちでやったらお客さんが来ない」(笑い)と言われたこともあります。
 だけど東京の批評家がわざわざ聴きに来られたり、九州のファンの方が「一生聴くことないやろう」と来てくださる。大阪には4つのプロ・オーケストラがありますが、他のオケではできないことにこだわり、それに見合う演奏を、今後も続けていきたいと思います。
 ――長年、親しんできた「シンフォニカー」の名前がなくなって寂しい気もしますが、また新たな出発ですね。
敷島 創立時の名前は大阪シンフォニカー。ところが、アンサンブルしかできないと思われて、「お宅は交響楽団やないから『第九』はできませんよね」とか、時には「カー」が付いているので車屋さんに間違われたこともあったりして、01年から、「大阪シンフォニカー交響楽団」に変えました。すると仕事が増えてきたんですが、「シンフォニカー」もドイツ語で交響楽団という意味なので、「交響楽団交響楽団」となり、おかしいとあちこちから言われてきました。

各地に楽団大阪だって

 それで、札幌には札幌交響楽団、広島、九州、東京にもある。大阪にもあっていいだろうということになり、30周年を機に改称することに。ドイツ語にすると最初の「大阪シンフォニカー」に戻ることになります。クラシックを全然ご存知ない方も含めて、大阪には大阪交響楽団があるんだとたくさんの方に親しんでもらえるようになるように、これからも頑張っていきたいと思います。

しきしま・てつお 1956年、大阪市生まれ。早稲田大学卒業後、東京の商社勤務を経て91年、大阪シンフォニカー事務局長に就任。01年、大阪シンフォニカー交響楽団楽団長に就任。元社団法人日本オーケストラ連盟理事。

投稿者 jcposaka : 2010年04月16日

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