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大阪城の戦争と平和を歩く 日本共産党書記局長 参議院議員・比例代表候補 市田.忠義さん 渡辺武元大阪城天守閣館長と共に

2010年01月02日

 「森之宮で生まれ、玉造小学校出身の…」――日本共産党書記局長の市田忠義さん(参院議員、比例代表候補)は、大阪での演説会で、必ずこう自己紹介します。市田さんが生まれた森之宮のすぐ近くにある大阪城公園は、都心で貴重な緑あふれる空間として府民に親しまれ、大阪城天守閣は国内外の人々が訪れる大阪を代表する観光名所。子どものころ、公園のイチョウ並木まで、ギンナンを拾いに出掛けたという市田さんが、元大阪城天守閣館長の渡辺武さんの案内で、大阪城の“戦争と平和”を歩きました。

 大手門へ向かう土橋で待ち合わせた市田さんに、「いよいよ参院選の年ですね。何としても、いい成績で当選してください」と期待を語る渡辺さん。大手門をくぐったところで、年配のボランティアガイドの男性が、「やあ、久しぶりですね、渡辺さん。あっ、市田さんや!」と声が掛かります。  「大阪城はまさに、軍都の拠点でした」――城内へ案内しながら、渡辺さんが、かつて軍事基地とされた大阪城の近代史を語り始めました。

「軍都・大阪」の拠点として

 大坂夏の陣(1615年)で豊臣氏が滅んだ後、徳川幕府の直轄地だった大坂城は、幕末の戊辰戦争(1868年)で落城しました。明治政府は1871年、没収した大阪城跡を軍事基地(大阪鎮台)とし、西南戦争(1877年)では司令部と兵へい站たん基地となり、1888年に大阪鎮台は第4師団司令部(のちに中部軍管区司令部)に変わりました。
 徳川幕府が再築した大坂城の天守閣は1665年に落雷で焼失して以来、約260年にわたって再建されないままでしたが、1931年に市民の寄付金で復興しました。
 しかし、日本が中国への全面的侵略を開始し、戦時下体制に入る中、1937年には軍機保護法により天守閣での撮影は禁止、太平洋戦争開戦後の1942年には天守閣が閉鎖、城内への立ち入りは禁止となりました。

米軍の空襲で建造物が焼失

 1945年、米軍が大阪砲兵工廠や軍事施設に空襲を集中。天守閣は奇跡的に破壊を免れたものの、京橋門など多くの建造物が焼失しました。終戦で米軍に接収された大阪城が、大阪市に返還されたのは1948年。天守閣の一般公開が再開されたのは、その翌年です。


 「いまも城内には空襲の跡が残っています。私が天守閣の学芸員になった1962年当時でさえ、樹木もほとんどなく、旧日本陸軍関係の廃屋が残され、荒涼としたありさまでした」と渡辺さんは振り返ります。
 1942年、森之宮で生まれた市田さん。「戦時中は、防空壕で豆ご飯を食べた記憶だけがあります。戦後は、3歳か4歳のころに公園でギンナンを拾った思い出です。軍事拠点として整備され、空襲を受けた後の光景は、現在の平和な花と緑の歴史公園という姿からは、まったく想像できないものですね」
 市田さんと渡辺さんは語り合いながら、桜の馬場を通って、豊国神社の南東、南外濠を見下ろす一角に到着しました。(3面に続く)


「大坂夏の陣図屏風」は「戦国時代のゲルニカ」です
大阪城天守閣元館長 渡辺武さん

戦争は非人間的なもの 2度と起こしてはならない
日本共産党書記局長 市田忠義さん

(1面から)

復興の最中に獄にいた鶴彬

 「衛戍(えいじゅ)監獄があったのは、ここです」と渡辺さん。軍法会議で重罪とされた兵士を収監した同監獄。石川県生まれの反戦川柳作家、鶴彬(つる・あきら 1909―1938)も1年8カ月間、ここに捕らえられていました。
 「鶴彬が収監されたのは1931年で、ちょうど天守閣の復興工事の最中。獄舎の中に、工事の音が響いてくると吟じた作品も残されています」と渡辺さんは紹介しました。
 鶴彬はその後釈放され、除隊しましたが、1937年に『川柳人』に掲載された作品で治安維持法違反に問われ、東京・豊多摩刑務所に留置。赤痢のため移送された病院で死亡しました。「官憲が赤痢菌を注射したという説もあります。治安維持法違反容疑のままで、まさに獄中死に他なりません」(渡辺さん)。

陸軍への批判作品に込めて

 鶴彬の没後70年に当たる昨年9月、この衛戍監獄跡地に、3本のサルスベリの植樹とともに顕彰の銘石が建てられました。ノンフィクション作家の澤地久枝さんや、社団法人日本川柳協会の本多智彦事務局長ら5氏が建立を呼び掛け、全国の1300人以上から500万円を超える賛同募金が寄せられました。
 「かつて衛戍監獄があったこの地に、非転向を貫いた鶴彬の碑が、皆さんの志と力で建ったことは、本当にふさわしく、意義深いと思います」と、銘石を初めて訪ねた市田さん。「鶴彬といえば、『手と足をもいだ丸太にしてかへし』という作品が思い浮かびます。兵士を戦場に送り、手足を奪った陸軍への痛烈な批判になっている。『かえり』でなく『かえし』にその思いが表れていますね」
 銘石に刻まれた句「暁をいだいて闇にゐる蕾」に触れて市田さんは、「いずれ必ず軍国主義の時代は終わるという思いが込められていると思います」。
 衛戍監獄跡から桜門を経て、天守閣に向けて歩きながら、渡辺さんが大坂城の築城工事を分担した大名のエピソード、石垣の工法や巨石がどう運搬されたかなどについて、市田さんに解説していきます。

戦争の残酷さ後世に伝える

 大阪城天守閣内の展示室では、「大坂夏の陣図屏風」(複製)を見学。直接展示されている右隻は、秀吉時代の天守閣を左側に配し、徳川方と豊臣方の合戦風景。これに対して左隻は、大混乱の中を逃げまどう民衆、敗残兵の姿、略奪などの様子が克明に描かれ、「夏の陣でいったい何が起きたのか。私は『戦国時代のゲルニカ』とも呼んでいます」(渡辺さん)
 夏の陣後に、徳川方大名の黒田長政が描かせたとされているこの屏風。川でおぼれる人たち、盗賊集団に着物を奪われて腰巻だけで逃げる女性、戦功のために首を切られた一般人の夫と、その前で泣き崩れる妻…描かれた人物の数は約5100に上ります。
 拡大した部分図を映し出すスクリーンに見入っていた市田さんは、「いかに戦争が非人間的なものであるか、戦勝した側であっても、その残酷さを後世に伝えようという意図があったんだろうと感じます」。

「科学の光」と大阪城の歴史

 豊臣秀吉が1583年に築城に着手してから400年以上にわたる大阪城の歴史に、「科学の光」が当てられるようになったのは、1959年に「大坂城総合学術調査」が実施されてからだと渡辺さんは指摘します。現在、地上に見える遺構のすべてが、夏の陣で落城した豊臣の城の修復ではなく、徳川幕府が全面的に再築したものであることも明らかになりました。
 渡辺さんは、「明治時代に、江戸時代の再築についての研究もありましたが、長い間、現存の城は秀吉の城そのものと思い込まれてきました。陸軍の軍事拠点だった事情や、『海外進出の先駆者』として秀吉を賛美する教育も広まる中、『あんなに立派な石垣がつくれるのは太閤さんしかない』といった先入観もありました」と語ります。
 市田さんは言います。「大阪城はかつて陸軍の司令部が置かれた軍事拠点であり、鶴彬の時代とは戦争の性格も違うけれども、夏の陣図屏風に描かれたような戦争の惨禍もこの地にあった。大阪城は、緑あふれる憩いの場であるとともに、2度と起こしてはならない戦争について思い起こし、考える場ですね」

投稿者 jcposaka : 2010年01月02日

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