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清水ただし対談 沖縄の苦しみ受け止める政治を アメリカに物言える党伸びて

2009年12月11日

元沖縄人民党中央委員
親川孝芳さん
参院大阪選挙区候補・大阪市議
清水ただしさん

 日本共産党の清水ただし参院選大阪選挙区候補・大阪市議が、大阪市大正区在住の沖縄県人、親川孝芳さん(93)と対談しました。親川さんは、戦後の沖縄本土復帰運動に重要な役割を果たした元沖縄人民党中央委員。米軍基地問題や平和への思いなどを語り合いました。
清水 初めまして!清水ただしです。
親川 ポスターより男前やなあ(笑い)。
 いま、辺野古のじいさんもばあさんも、(基地建設反対の)座り込みして頑張ってる。
清水 杭を一本も打たせないで、本当に頑張ってたたかっておられますね。

不正に対して黙ってられん

親川 私も行って一緒にやりたいけど、足が悪いんで行かれんのですよ。沖縄の人は普段はおとなしいが、不正に対しては、人が考えられんような力を出すんですよ。
清水 1995年、私が27歳の時、沖縄で米兵による少女暴行事件が起き、何とひどいことをするのかと憤りを感じました。97年に、米軍に取り上げられていた土地の一部が、ようやく県民に返ってくるという期限を迎えたのに、それを延期するために駐留軍用地特別措置法が変えられた。テレビで見ていて、どう考えてもおかしいと思いました。野球でいうと、9回裏2アウトまで負けているのを、急にルールを変え、自分たちに有利にするようなことを当時の自民党がやったんですね。
親川 ほんまやなあ。
清水 30歳のときに「しんぶん赤旗」の出張所長になったんですが、お手伝いしてくださっていた年配の男性が奄美大島出身の方でした。沖縄人民党委員長で日本共産党副委員長もされた瀬長亀次郎さんにもお世話になったとおっしゃってました。それで瀬長さんたちが、アメリカの支配に対しはっきりと物を言ってたたかわれたという話を聞いて、僕らもその精神を受け継いで頑張りたいと思っていました。

米兵の犯罪も取り締まれず

親川 当時は選挙のあいさつなどで反米的なことを言うと、アメリカの情報機関がすぐにどんな話をしたかと、参加した人の職場まで聞きに来ていました。僕は大阪で終戦を迎えましたが、憲法も変わって言論の自由も勝ち取った。その空気を感じていたので、翌年、沖縄に帰り、旧態依然とした状況に接して、こんなけしからんことがあるかと思いましたね。
 沖縄で警察に勤めていた時、結婚前の女性が米兵に暴行される事件が起きました。道でさらわれそうになり、びっくりして畑のほうに逃げたけど、つかまえられてトラックの中で暴行された。畑で仕事していた人が警察に通報して、こっちも追い掛けたけど探しきれず警戒していたら、その女性はどこかの畑でおっぽり出されて気絶していた。その横にたばこが一箱置いてあったそうです。
 現行犯なら、われわれ民警が捕ほ縛ばくできるけど、そうでなかったらどうにもならなかったんですね。
清水 いまでも起訴されるまでの間は身柄の拘束もできませんよね。(かばんから宜野湾市の地図を取り出して)私、いつもこの普天間基地の地図を皆さんに見てもらっているんです。
親川 ほー。初めて見るわ。
清水 この滑走路が2800b。日本一長い天神橋筋商店街に匹敵するような大きさです。基地のすぐ目の前に役所や消防署、幼稚園、保育所、学校、住宅が密集しています。アメリカではこんな町のど真ん中に基地をつくっちゃだめなのに、沖縄ではわが物顔で都市部の一番いい所にどーんとある。5年前、沖縄国際大学に米軍のヘリコプターが落ちました。死者は出ませんでしたが、保育所で子どもたちが昼寝している所に落ちたらどうなっていたか。
 宜野湾市の土地の面積の25%が普天間基地です。それを嘉手納基地に統合しようとか、サンゴやジュゴンのいる美ちゅら海の辺野古に移転しようとかいう話になっていますが、私は即時閉鎖し、沖縄県内でのたらい回しは絶対させてはならないと思います。
親川 日本は独立国やのにアメリカの言いなり。植民地みたいになっているんです。
清水 沖縄に米軍基地があるのは決して日本を守るためではありません。経費が安く、イラクや中東に出掛けていく前線基地として便利だからなんですね。基地問題は命と暮らしがかかっています。いまこそ日本全体の問題として、沖縄の人たちの苦しみや思いをしっかりと政治が受け止める時期だと思います。

出ていけと言えば済むのに

親川 大正区は約8万人の区民の中で2万人が沖縄出身。96年、日米地位協定見直しと在沖縄米軍基地の整理・縮小の是非を問う県民投票を支援しようと、僕が代表になって実行委員会をつくり、区内の商店街で住民投票をしました。すると見直しにも整理・縮小にも98%が賛成した。いまもその思いは変わりません。米軍基地は、政府が出て行けと言ったらすぐになくせるものなんですね。
清水 自民党にしても民主党にしても、どうしてもアメリカに頭が上がらない。日米安保条約を容認しているので限界があるんですね。
親川 それも一方的に破棄できるのに。独立国やったらできるはずだ。
清水 そうです。安保条約第10条で、1年前に予告したら一方的に破棄できると書いています。
 フィリピンにもアメリカの基地がありましたが、「出て行け」と言ったら、当初、アメリカはえらい怒りましたが結局出て行ったんですね。
親川 僕も中国の戦争に行きました。輸送隊やから戦闘には参加してないけど、20人殺したとか、10人斬ったとか言っていばるような時代でした。
 僕らは小さいころから「命ぬちどぅ宝(命こそ宝)」と教えられて育ったけど、その沖縄で集団自決があったんです。軍の指示でなかったとか言ってるけど、わしらの知り合いでも同行したのがいたし、証人はなんぼでもおるんです。戦争は絶対してはならない。生きているわれわれが体験を話すのが任務やと思っています。
清水 戦争は二度と起こさないと誓った憲法9条を私たちは持っています。戦争を知らない私たちには、体験者の話を聞いて、それを伝えていく義務があると思います。
親川 アメリカに堂々と物が言える共産党から議員さんが出ることは、わしらの願い。矢達幸さんが大阪市議会議員に初めて当選した時、沖縄会館でやった当選祝いで、僕は「生きてて良かった」と言いました。僕らの時代から共産党は伸びてるけど、もっともっと伸びてもらわんとあかん。また、「生きてて良かった」と言いたいよ(笑い)。
清水 大阪のみんなが燃えれば必ず勝てる、必ず伸びる選挙だと思っています。大阪選挙区の議席は、古くはくつぬぎタケ子さんが補欠選挙で勝ったこともある伝統ある議席。定数3の大阪選挙区で、平和のために頑張る、沖縄の皆さんと連帯して頑張る、基地のない沖縄のために頑張る共産党の議席を絶対増やさなければ。そして私も国会に行くようになれば、沖縄の基地の問題、平和の問題、基地をなくした後の、沖縄県の豊かな自然を生かした観光行政も含めて、沖縄の産業がもっともっと発展するよう頑張りたいと思います。


おやかわ・こうほう 1916年、沖縄県国頭郡羽地村(現名護市)出身。少年時代に大阪へ。38年、鹿児島6師団に入隊し中国戦線に従軍。帰国後、沖縄に戻り、沖縄人民党北部地区委員会創設、沖縄祖国復帰運動に参加。その後、大阪で沖縄県人の権利・生活向上目指して活動。

投稿者 jcposaka : 2009年12月11日

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