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編集長のわくわくインタビュー 医師・早川一光さん

2009年07月23日

わらじ医者として60年ですね
多くの人から医学学んだ

早川一光さん 20代から半世紀近く西陣で、 73歳から7年間は美山町の農村と、 長年、 京都の地域医療にたずさわり 「わらじ医者」 の名で親しまれてきた早川一光さん。 現在は、 「80歳でこそできる医療を」 と血圧、 聴診、 問診だけの医療活動を展開しながら、 ラジオ番組のパーソナリティー、 講演活動と忙しい毎日を送っている早川さんを、 京都市右京区衣笠のご自宅兼診療所に訪ねました。 (聞き手 佐藤圭子編集長)

   大阪にもよく講演に来られていますが、 ずいぶん好評のようですね。 舞台を歩き回っての講演に 「とても85歳とは思えない」 と。 早川 大阪の人はよう笑うのでとても好き。 クスクスとかニタリとかではなく、 ゲラゲラと笑う。 明るくて、 ヤジや掛け声が飛ぶのもいい。 ギャグやしゃれが通じるんですね。 そしてみんなが友達で、 肩をたたき合って笑うのが大阪の特徴です。  大阪に来たらホッとするんです。 たとえば道にゴミを出すなという立て看板、 大阪では 「あんたのいらんもんは、 わしもいらん」 (笑い)。 やめとこという禁止の仕方に落ちというかしゃれがある。 なにわの庶民のセンスですね。    長年、 京都で地域医療にかかわってこられましたが、 西陣に飛び込まれたのは26歳の時だったそうですね。 西陣で民主主 義を教わった 早川 戦後間もなく、 西陣で働く人たちが、 自分たちで5円、 10円とお金を集めて診療所をつくる運動をしました。 戦時中は織機を供出させられて兵隊にも取られ、 残った者は軍需工場で働かされた。 戦争が終わったら壊された織機を集めて織り出すんですが、 帯一本織っていくらという織り高払いの賃労働者で、 健康保険もないし医者かかれへん。 お金がのうても安心してかかれる医者をとみんなで運動して、 府立医大で誰か医者おれへんかということになって、 「わし、 行くわ」 と言うて行ったんが始まりでした。  その時は伝染病や栄養失調が多かった。 「明日来ないかんで」 と言っても来ない患者さんがいる。 「ほっとけない」 と往診を始めてみると、 あれ?こんなとこに共同井戸、 共同便所があって炊事、 洗濯してる。 これでは赤痢は防げない。 排水溝つけてくれ、 どぶ板を直してくれと住民の皆さんと運動しました。  僕の医学は大学で習ったものではなく、 西陣の人たちが教科書でした。 生活習慣や生活環境から病が出てくること、 環境を直さないと病気が治らないこと。 自分の体は自分で直す。 自分だけでなく隣の人も守る。 自主・自立と共生です。 立場や考え方が違っていても、 相手を理解しながら手を組んでいくという民主主義を西陣の人は教えてくれたんです。    西陣の活動を後継に譲られた後、 今度は山深い美山町で農村医療を始められました。 早川 村に唯一あった診療所の先生が病気になられて、 「診療の灯を消さないで」 と町長さんや民生委員さんたちがここに来られたんです。 ほっとけない。 「行くわ」 と言って引き受けたのが始まりでした。 痛みを分かっ てくれる存在  西陣で、 医療は暮らしの中にあることを学んだ僕は、 生活が見える医者になった。 美山のババが腰が痛いと言って来た時、 「痛いか。 それは大変やなあ。 あんたとこ段々畑やもん。 そらあんた40年もこれやってきたら骨も曲がるし、 そら痛いやろう」 と。  ところが腰が痛いと言うので往診するんですが、 行っても家におらん。 ひょっとして便所かどっかで倒れて死んでるんちゃうかと心配になって、 「おい、 おばあ!」 と探し回ってたら、 畑からひょいと出てくる。 結局、 ババにとったら畑が治療であり、 作物を贈った人からの礼が生きがいであり、 薬なんですね。 そして痛いと言うた時に、 その痛みを分かってくれる人の存在が大事なんですね。    85歳になられた現在は、 このご自宅で 「わらじ医者 よろず診療所」 と銘打って活動を。 早川 美山も若い人に任せられるようになって、 こっちに戻ってきた時、 ふっと気が付いたら80歳になってました。 あっという間に。 それで80歳になってからどういう医療をしたらいいのかと考えて、 「80歳でもできる医療」 やなくて、 「80歳でこそできる医療」 を考えました。 そしたら家内が、 「そろそろ白衣を脱いだら?」 と言ったんですね。  ところが考えてみると、 白衣を脱いだことがないんです。 白衣を着ると、 僕は医者、 あんた患者さんというように、 魔法の権威になることに気が付いた。 その権威を脱ぐというのが僕にとっては最終の民主主義でした。  白衣を脱いで、 健康保険医の免許も返上して、 残ったのは聴診器と血圧計だけ。 薬も捨てた。 検査もなし。 診察室はこの茶室。 待合室はこの後ろの玄関の廊下。 その代わり、 持ち運びができる電話機を1台増やして、 かかってきたら24時間いつでも出て聞く。 一人で悩むな。 困ったらいつでもわしとこに電話せいと。  相談を受けたら必ずカルテを作ってファイルしてると、 始めてからまる5年で10巻、 1千人分になりました。  全国からいろんな人が来られますが、 話を聞いて、 家内が作ってくれたお茶を一緒に飲む。 それが薬になるんですね。 お金も一切いただかない。 治療費は働いている時に前払いでもらっていたと考えたらいい。 お米も野菜もみんなから送ってもらえるので買ったことありません。 地球上の命を 守るのが9条    先生は、 憲法9条を守ろうというメッセージも発信されていますね。 早川 憲法9条は、 国民が大変な犠牲を払って、 日本人だけでなく異国の人たちもたくさん殺して、 戦争だけはせんとこ、 人と争う武器を持つまいと誓ったものです。 これは政治の問題でなく人間の問題です。 人間だけの命ではなくこの地球上にあるものの命を守るのが9条やないか。  僕の友達の半分は戦死してるし、 僕も医学部に行ってなんだら死んでたかも知れない。 軍医になれと言われ、 召集が延期されている間に終戦を迎えた。 それまで正しいと思っていたことが正しくなくなったショックから、 自ら勉強し、 自ら学問し、 自ら疑問に持つことが大事だと痛感しました。    いつまでも若々しい秘訣は何ですか? 早川 緊張すること。 ラジオのパーソナリティーも毎週土曜日の朝、 21年続けてきたけど、 パーソナリティーは個性であって、 僕にしかできないこと。 病気しても、 木曜、 金曜には治ってる。 食養生や健康診断もしてないけど、 とにかく緊張感だけは持ってます。 心だけは起き といてほしい  皆さんにもなくてはならない人になってほしい。 家の中でも町内でも社会でも。 ババはババなりに仕事はある。 寝たきりでもいい。 体は寝たきりになってもいいし、 おしっこ行けなかったらおむつしてもいい。 だけど心だけは起きといてほしい。 そしていつも 「ありがとう」 「すまんね」 と言えて、 いつまでも生きていてねと言われるような人であってほしいですね。  老いは衰ろえではなくて円熟なんです。 人間として熟すことです。 僕の財産は60年間、 いろんな人を見てきたこと。 これからもずっとここで、 わらじ医者として活動を続けていきたいですね。

はやかわ・かずてる 1924年、 愛知県生まれ。 京都府立医科大学卒業。 50年、 京都・西陣に住民出資による白峰診療所を創設。 後に堀川病院となり院長・理事長を務める。 98年から7年間、 京都府美山町の美山診療所で農村医療に従事。 02年、 京都・衣笠の自宅に 「わらじ医者 よろず診療所」 を開設。 KBSラジオの長寿番組 「早川一光のばんざい人間」 (毎週土曜日午前6時15分〜8時25分) のパーソナリティーとして活躍しながら、 全国各地で講演活動を展開。 著書の 『わらじ医者京日記』 で第34回毎日出版文化賞を受賞し、 NHK連続小説 「とおりゃんせ」 の原作に。

投稿者 jcposaka : 2009年07月23日

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