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新入党物語#2 「派遣労働の末に」―党の看板『最後の砦』

2009年02月27日

山崎安広さん(43、仮名)=八尾市在住=は昨年末、クリスマスも過ぎたころ、道を歩いていて偶然、日本共産党の「生活相談所」の看板を見つけました。貯金は底をつき、1日の食事は食パン1枚。水だけで過ごす日もありました。
 山崎さんの出身は北海道函館市。高校を卒業しても市内に職は無く、神奈川県の海上自衛隊へ入隊しました。
 25歳の時に体を壊して除隊。仕事を求め群馬県に移り、自動車部品工場や電気部品工場などで働きました。給料は、社会保険料や寮代を引かれた残りが25万ほど。「いい先輩にも恵まれて順風満帆だった」
◎いいように首切られ
 2000年ごろから派遣で働き始めましたが、企業の都合で何度も契約期間中に解雇されました。「職場の休憩時間に派遣会社の担当者が来て、『今日でこの仕事は終わり』と言われるんです」。退職理由はいつも、雇用保険の失業給付の時期や金額が不利になる「自己都合」扱いにされました。
 給料の支払いも「締め日の1カ月や2カ月先はざら」。生活費に困ると給料を前借りしました。
 「ずっとこの生活ではいけない」と、将来に不安を感じ始め、2008年3月末、電気部品工場を雇い止めになった時に県を離れる決心をします。
 知人を頼って大阪へ来たのが08年4月。八尾市のゴムプレス工場で働きましたが、3カ月目に過労から脱水症状を起こし解雇されました。次に就いた品質検査の仕事も10月末で解雇されました。
 貯金は10万円を切っていました。新たな仕事を求め11社の面接を受けましたが全て不採用。やっと見つけた郵便局での年賀状仕分けのアルバイトも、給料の受け取りは1カ月先。食べ物を買うお金も無くなり、「年が越せない」と思った時、日本共産党の事務所前を通りかかりました。連絡を受けた大野よしのぶ八尾市議が相談に乗り、正月休暇前の市役所で生活保護を申請しました。「共産党の看板を見つけた時、『この看板が最後の砦』みたいに思いました」。
 いまは生活保護を受けながら郵便局の期間職員をしています。1月16日に入党し、党後援会の「新春のつどい」で体験を話しました。「企業が簡単に労働者の首を切れる。これが派遣労働の実態です」

投稿者 jcposaka : 2009年02月27日

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