時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第16話 大阪大空襲のなかで

 太平洋戦争下、1944(昭和19)年12月19日の中河内郡三宅村(現松原市)、瓜破村(現大阪市平野区)への爆弾投下に始まり、45年8月14日の砲兵工廠爆撃まで、大阪は大空襲8回を含め50回の空襲を受けます。

 このなかで45年8月14日、終戦を1日前にして京橋駅一帯を襲った米軍による大爆撃は、わが国最大の軍需工場、陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)の壊滅を狙ったものでした。

「防空法」

 空襲にたいして、当時の「防空法」(37年)によって、国民には「逃げるな」と退去、避難が禁止されました。逃げたら、焼夷弾による火災を誰も消せないからです。「焼夷弾は手で掴める」「バケツ5、6杯で消せる!」「防空壕は床下を掘れ!」――とキャンペーンがはられ、逃げられないように「隣組」で監視させる。逃げることが許されなかったのでした(大前治『検証 防空法 空襲下で禁じられた避難』)。
 大阪においても「満州事変」以後、32年3月には、大阪府・市・商工会議所が音頭をとり、「防空献金運動」が展開され、のちにわが国最大の婦人団体となる国防婦人会が港区市岡の地に生まれます。34年には大阪市を中心に近畿防空演習が実施されます。防空演習の眼目の一つは灯火管制で、盛り場の赤い灯・青い灯はもとより家庭の電灯、自動車のヘッドライトまできびしい規制を受けました。41年12月8日の大阪市公報号外10号には、「防空の構え」として、「大阪市を護ることは国を護ることだ」「防空は戦闘であり国民の義務である」「官憲の命によるの外、退去避難は許されぬ」などが列挙されていました。
 この当時、空襲に備えるためと、大阪市立動物園のライオン、シロクマなど26頭の猛獣が毒殺されました。空襲でつぶれた檻から猛獣がとびだしてくることはありえず、動物を愛していた子どもたちにも「一死報国」の覚悟を促す意図をもったものでした。

廃墟となった大阪

 40年、325万を数えた大阪市人口は45年には111万人へと激減します。港区は、22万877人から8627人へと、96・1%も減少しました。大阪府警察局作成の『大阪府空襲被害状況』(45年10月)によると、空襲による家屋の被害は総計34万4240戸、罹災者122万4533人、死者1万2620人、重軽傷者3万1088人、行方不明2173人。これらの大半は大阪市民でした。
 この廃墟のなかで、8月15日の終戦を迎えます。

「北斗七星のように」

 戦前史もあと一話で締めくくりとなります。ここで戦前の日本共産党の不屈のたたかいと存在の意義を語った2つの文献を紹介したいと思います。
 一つは、鶴見俊輔『現代日本の思想』(岩波新書)から。
 「すべての陣営が大勢に順応して、右に左に移動してあるく中で日本共産党だけは、創立以来、動かぬ一点を守りつづけてきた。それは北斗七星のようにそれを見ることによって、自分がどのていど時流に流されたか、自分がどれほどダメな人間になってしまったかを計ることのできる尺度として、一九二六年から一九四五年まで、日本の知識人によって用いられてきた」。

 いま一つは、自民党発行の『日本の政党』から。
 「社会党を含めて他の政党が何らかの形で戦争に協力したのに対し、ひとり共産党は終始一貫戦争に反対してきた。従って共産党は他党にない道徳的権威を持っていた」(次回は「青年学生のたたかい」です)

(大阪民主新報、2020年11月1日号より)

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