時代をつないで 大阪の日本共産党物語

第18話 日本共産党の旗、公然と

 1945年8月15日の終戦。大空襲後の大阪では、大阪駅に降り立つと御堂筋の向こうに難波・高島屋のビルを見ることができました。

川上貫一と戎谷春松

1945年11月に開設した大阪の共産党組織の初代事務所。旭区赤川にありました。

 このなかで、戦前は許されなかった日本共産党の旗が公然とひるがえり、党の再建と活動がすすみます。
 戦後、日本共産党に加わり、代議士として活躍する川上貫一は、36年に検挙され、41年に豊多摩刑務所を出獄しましたが、共産党の消息はわからず、山形の大井沢で暮らしている中で8月15日を迎えました。それを境に、東京へ戻ります。「東京には、日本共産党の公然たる赤旗が、立ち上がった人民の息吹の前に、へんぽんとひるがえっていた」(『自伝全編 とおいむかし』)。
 敗戦と同時に活動を始めた一人に、のちの日本共産党副委員長、戎谷春松がいます。44年に大阪刑務所を出た後、45年2月に応召され、北大阪方面を防衛する大隊に所属しましたが、8月始めに敗戦、無条件降伏の近いことを知り、8月23日の部隊解散までの間にも、党組織の「点」を「面」にするために職場の同志との連絡と食料確保に精をだしていました(「大阪民主新報」72年10月12日付)。

大阪の党再建   

 10月15日、治安維持法は廃止されます。この日の朝、東京で党再建をすすめていた黒木重徳から戎谷のもとに「会いたし」の電報が届きます。戎谷は「獄内細胞責任者」であった松本惣一郎とともに黒木と会うと、「党の再建をいっしょにやろう」と話しかけられました。すぐに生野区の二階家には志田重男など各地から出獄したメンバーが集い、30数人のリストをあげ、党再建に着手します。
 この二階家で党再建とともに議論したのは、19日に迫った「自由戦士出獄歓迎大阪人民大会」の準備でした。

自由戦士歓迎大会 

 10月19日、中之島公会堂。釈放された共産主義者を迎えて、「自由戦士出獄歓迎大阪人民大会」が開かれ、「5000人」と伝えられる人々が集まりました。東京から徳田球一・金天海・黒木重徳らが、大阪からは松本惣一郎、西川彦義、宗性徹、金石松らが熱弁をふるいました。「とくに徳田の熱弁は五千人近い大衆にアピールし、熱狂的な雰囲気をもりあげていった」(戎谷)といいます。
 集会後、参加者は肥後橋付近まで天皇制の打倒、人民戦線の結成などを公然と叫びながら、デモ行進しました。肥後橋のたもとで米占領軍のMPにつかまり、デモ解散が命じられます。米軍による大阪地方での、正当な示威行進への弾圧第一号でした。

赤川に大阪の党事務所        

 そしてついに10月24日、共産党大阪地方再建促進委員会が、志田重男を責任者に、岩本巌、戎谷春松、島田清、西川彦義、松本惣一郎の6人で構成されます。
 11月には、大阪市旭区赤川町3丁目のアパートに初めて党事務所が設けられました。
 同月8日に開かれた全国協議会には、大阪から86人の党員を代表して岩本、戎谷、志田の3人が参加しました。再建された大阪の党組織は、一企業一組合のうえにたった産業別単一労組結成のため全大阪工代会議の開催などの闘争の先頭にたつとともに、党組織の拡大に大きな力を注ぎます。
 そして46年を迎えます。(次回は「占領下の大阪」です)

(大阪民主新報、2020年11月15日号より)

コンテンツ